【全文】「教会の境界線が変わる」ルカ14章7~14節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

今日は予定では西南学院大学の濱野道雄教授をお呼びして主の晩餐について、教会についてお聞きし、学びたいと思っていましたが、濱野先生の体調の事情によって延期とすることになりました。たくさん聞きたいことがあったのに大変残念です。私はオンラインで濱野先生の授業を受講しています。その中から今日、濱野先生だったらどんな話をしたか想像しながら話そうと思います。

教会には変わらないものと、変わるものがあります。私が最近一番驚いた教会の変化は、週報棚についてです。これまで平塚バプテスト教会では週報棚は教会員・現在会員のみが使用していました。しかし今回、教会員以外の方にも週報棚ができました。大きな変化です。もともと私の育った教会も平塚教会同様に、バプテスマを受けてその教会の教会員にならなければ週報棚はもらえませんでした。バプテスマを受けて、週報棚に自分の名前のシールが貼られた時、とてもうれしかったのを思い出します。

教会にはいろいろな会員の区分があります。大きく分けて現在会員、他行会員、客員会員、求道者の4つです。規則によれば現在会員とは、バプテスマを受けて平塚教会に籍を置いており、1年以内に礼拝に参加または献金をした人です。他行会員とはバプテスマを受け、平塚教会に籍があるが、1年以上礼拝に参加せず、献金もない会員のことです。名簿の行を分けて他の行に書くので他行会員と言います。客員会員とはバプテスマを受け他の教会に在籍しているが、平塚教会の礼拝に出席している人のことです。この方は「転入会」をすると現在会員になります。求道者あるいは来会者とは、バプテスマをうけていないが、礼拝に出席している人のことです。これまで平塚教会の週報棚の使用はバプテスマと教会籍の有無で決めていました。週報棚があるのは現在会員のみでした。他行会員や客員会員、求道者にはありませんでした。

週報棚のルールを変えるきっかけは連盟発行する聖書教育という冊子です。これまで3か月に1回の発行だったものが、毎月に変更になりました。聖書教育は週報棚のある人もない人も購読をしています。ですから週報棚のない人に聖書教育を毎月手渡しするのが大変になりました。執事会で話し合い、現在会員以外の方でも購読物があれば週報棚を作るということになりました。

私はこの変化に驚いています。私のいままでの教会の常識とは違うからです。私は他の教会の仲間にすごい変化が起きて驚いていると伝えました。しかし他の教会の仲間は驚きませんでした。その教会にもルールがあって、教会員でなくても週報棚を作る場合があるというのです。私はもう一度びっくりしました。私の常識は本当に私だけの常識だったと感じました。ちなみに連盟の発行物は今後も大幅な刷新が予定され、またまだ変化する予定です。私たちはどう変わるのでしょうか。私が感じたことは、今まで自分がなんとなく持っていた境界線にはどんな意味があったのだろうかということです。

社会では所属意識が変化しています。町内会、こども会、PTAへの所属意識は大きく変化しています。会社も入ったら定年までの終身雇用というわけではありません。働き方も多様です。同じオフィスフロアに正社員、派遣社員、契約社員、アルバイトが一緒に働きます。誰がどこに所属しているのかあいまいになってきています。当然、教会に対しても所属という意識は変わってくるのだと思います。どこまで教会なのか、教会の境界線がどこにあるのか疑問に思います。

ある数学のモデルが参考になるかもしれません。週報の図の通りです。これまでの教会はAさん・Dさんと、Bさん・Cさんは、はっきりとした境界線で区切られていました。誰がメンバーで、誰がそうでないかはっきりとしていたのです。

しかし右のモデルはちがいます。この共同体は境界線がアメーバのように変化します。そしてこれを見ると、いままで外側の人であったCさんは、メンバーの中にいることになります。Cさんを受け止める柔軟さがあります。Bさんは引き続き違う人です。Dさんは今まで同じと思っていましたが、実は境界線上にいる人です。もしかすると私はCかもしれません。

図の真ん中に点を加えました。大事なのは真ん中の点です。そして大事なのはその点に近いか遠いかではなく、その点を目指しているかどうかです。この共同体の特徴は、中心の点から多少距離が離れていても、その人を取り込むように組織の形が変わってゆくという点です。

実は週報棚の件は、このようなことが起きていたのではないでしょうか。教会が境界線を柔軟に変え、新しい人を加えた出来事だったのではないでしょうか。

目指している中心の点はどちらも変わりません。中心にはイエスの教え、イエスの十字架、神があります。私たちは変わらない、この中心の点を目指してしてゆきたいと思います。そして同時に点に対して多少距離が離れていたとしても、もし点に向かっている人がいれば、話し合い、私たちの境界線・共同体の形を柔軟に変えることも大切にしたいと思っています。そんなことを週報棚の件から考えました。難しい話をしましたが、何より、私は新しい週報棚を喜んでいる人を見て、ルールを変えてよかったと感じました。

今日の聖書の個所を見ましょう。今日はルカによる福音書14章7節~14節です。この個所は私たちに変化を求めている箇所です。柔軟に境界線を変えようという話です。この時、イエス様はどんな変化を私たちに求めたのか見てゆきたいと思います。

前半は私たちが宴会に招かれたらどうすべきかが語られています。謙遜な態度で末席に座りましょうという単純な話ではありません。私たち人間は、自分は招かれて当然だ、人より一段高い対応を受けて当然だと思うものです。私はいいから、あなたが前に座ってというような表面的な謙遜のことを言っているのではありません。もっと心の奥にある、自分が優位に立ちたい、他の人より特別に扱われたいと思う気持ちに注意を促しています。

今日は特に後半を見たいと思います。後半は私たちがお客様を招く時の注意が書かれています。私たちは誰を招くかが問われています。聖書によればこの人たちがまっさきにパーティーに招きたいと思ったのは兄弟、親類、近所の金持ちだったというのです。これが私たちの性質です。私たちは仲間を作ろうとするとき、私たちは共同体を作ろうとするとき、家族や親戚といった、気心の知れた仲間と、価値観が一緒の仲間と共同体を作ろうと考えます。あるいは、そこにお金持ちや有力な人が入って、組織に箔がついて、経済的な心配もない。そんな共同体を作ろうとします。自分がそこに所属していると、居心地がよく、私は他の人よりちょっといい人間だと思える場所、人はそんな場所を作ろうとします。

しかしイエス様は言います。もしパーティーを催すときには、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人を招くようにと。これは私たちが招こうとしている人を変えるようにという教えです。

私たちが招くのは仲良しや金持ちではなく、困っている人、悩んでいる人だということです。私たちはそのような人と一緒に居ようという教えです。自分と気の合う人、価値観が合う人、あこがれるようなキラキラした人が集まる場所を目指すのはやめようということです。そうではなく、イエス様は傷つき、困っている人が集まる場所を目指そうと言っているのです。

この宴会・パーティーは教会と言い換える変えることができるでしょう。教会もそのような共同体だと思います。私たちはもちろん兄弟、親戚、近所の金持ちが集まるからこの教会に来ているのではありません。私たちこそ傷つき、悩み、疲れ、貧しい者として、神様に招かれています。その集まりがこの教会です。

イエス様は、教会はそのような集まりだと言います。そしてイエス様は誰をこの共同体の中に招くのかという、境界線を変えるように言っています。そこには私たちが今まで思ってきた招きと違う招きがあるはずです。いままで私たちが招かれていないと思っていた人の中にこそ、神様の招きがあるというのです。神様は誰が神様の招きの中にいるのか、あなたたちの境界線をもう一度見直してごらんと言っているのではないでしょうか。私たちは価値観も違う、血縁もない、たいして金持ちでもない集まりです。でも私たちは今日神様に集められています。お互いに人生に困り、疲れ、悩み、不自由を感じています。その私たちを神様が今日集めて下さったのです。私たちの教会には確かに境界線があると思います。誰が仲間で、誰がそうではないかという境界線があります。境界線は全く必要ないわけではありません。同時に、境界線はもっと変わってもいいのではないでしょうか。今日の個所からそのように思わされます。

私たちは、ここまでが仲間だと思っていたその境界線を変えることができます。今日の個所はそのように私たちに伝えているのではないでしょうか。もちろん大事なのはイエス・キリストに向かっているかどうかでしょう。

私たちの教会はどのような境界線をもっており、どのように変化してゆくでしょうか。礼拝に集う時どのような思いで集うのでしょうか。教会で人を迎える時どのような思いで迎えるでしょうか。もう一度考えたいと思います。そして変化に開かれてゆきたいと思っています。神様にあなたたちは幸いだと言われるような集いができる教会でありたいと願います。お祈りします。