【全文】「ゆるせなくていいよ」マタイ6章9~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を命の音として共に礼拝をしています。今日も一緒に礼拝をしましょう。

先週は神学生の根塚さんに宣教の奉仕をしていただきました。主の恵みに感謝です。そしてまた来週はふじみ教会の草島先生が宣教をしてくださいます。その恵みにも期待をしています。私たちは間をはさみながらですが、7月8月と主の祈りについて考えています。今日が5回目です。今日を含めてあと2回で終えることになります。主の祈りを見てゆきましょう。

今日見てゆきたいのは「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」についてです。ここまで見てきたのは「御国を来たらせたまえ」「御心をなさせたまえ」「食べ物を与えたまえ」と神様に何かを願う祈りでした。しかし今回は少し違います。この祈りには「私はあの人のことを赦します」という宣言が含まれています。これまでのお願いから急に「私はあの人を赦します」という宣言になります。だからこそこの個所は主の祈りの中で、一番祈りづらい場所と言われます。一番自信を持って祈ることができない箇所です。「我らが罪を○%×$☆♭#▲!※、我らの罪を赦したまえ」とごまかしたい祈りです。なかなか宣教もしづらい箇所です。

この祈りをもっと知るために、罪とは何か、赦すとは何かという2つの側面から考えたいと思います。まず罪とは何かを考えてみましょう。

罪とは大きくは命を傷つけることです。法律で禁止されているかどうかに関わらず、人の命を傷つけたり、見下したり、物のように扱う事が罪です。罪はもともとは「的外れ」という意味を持ちます。神様が造った命を、見当違いに扱う事が罪です。命を傷つけることは、それを作った神様との関係を壊す行為です。人間の命を傷つけることで、神様との関係が壊れてしまうこと、それが罪と言えるでしょう。

イエス様はさらに罪について、実際の行動に移すだけではなく、悪い事を想像すること、命を傷つけることを想像することも罪だと言っています。もちろん行動に移したか、うつしていないかは大きな違いがあります。ただ根っこにある心は同じ罪を犯しています。行動だけではなく、その心も問われるのが罪です。

一番大きな罪、わかりやすい罪は戦争です。戦争は法律に基づいた殺し合いです。戦争で人を殺しても法律で罰せられることはありません。しかしキリスト教の考えではもちろん罪です。どんなに合法的で大多数の人々に支持されていても、どんな理由があっても、罪は罪です。人の命は決して傷つけてはいけません。神様の作品を傷つける罪です。また戦争を始めなくても暴力で人を脅す、脅そうと思うことも罪です。戦争をするのとしないのでは大きく違いますが、根っこにある心は同じ罪を犯しています。

私たちはこのように直接的かどうかに関わらず、いつも誰かを、誰かの命を傷つけてしまう存在です。私たちは少なからず何らかの意味において罪人です。私は罪人ではないという人は、自分の罪に気づいていない罪人でしょう。

では赦しとはどんなことでしょうか?キリスト教ではよく「赦し」という言葉をよく使います。赦すとはもうこれ以上その問題について相手を責めないことです。相手を責めずに、それ以前の関係に戻ることです。関係の回復が赦しです。

一番わかりやすい赦しは借金・負債の免除です。あなたの借金を免除し、もうあなたから取り立てをしない、あなたを責めないことが赦しです。そしてお金を貸す前の関係にもどり、以前のように一緒にいることが赦しです。赦すとは、このような関係の回復をいいます。罪によって損なわれた関係が、赦しによって回復するのです。ただここで注意が必要なのは「赦す」とは、借金を帳消しにして、それをきれいに水に流し、忘れてしまうことではないということです。「赦し」において、その出来事・罪は決して忘れられないこととして記憶され続けます。赦しとは、忘れはしないけど、でも関係を回復するということが赦しです。

キリスト教では「あなたも神様に赦されたのだから、さあ赦しなさい」と言うことが多く言われてきました。でも皆さんの人生には決して赦すことができないという出来事はあるでしょう。あのことだけはゆるせない。あのことは今でも納得できない。あの人のことを思い出すだけでイライラするということはあるでしょう。私にはあります。たくさんあります。絶対にゆるさないと思っていることがあります。そんな時、キリスト教では「赦しなさい」と教えてきました。「あなたも神様に赦されたのだから、さあ赦しましょう」と半ば赦しを強制してきたのです。しかしその教えは、多くの二次被害を生んできました。傷ついたことについて、牧師や他のクリスチャンに相談すると「クリスチャンなんだから赦しなさい」と言われ、もう一度傷ついた人が多くいます。それはまるで「そんなささいな事、水に流してとっとと忘れなさい」と言わんばかりです。

赦すか赦さないかは本人の自由です。赦しには時間がかかるものです。何十年もかかっても赦せないことがあります。それでいいのです。無理に赦さなくていいのです。簡単に赦す必要はないのです。

そして必ず必要というわけではありませんが、赦しは加害者からの誠実な謝罪や償いがあると、一歩前に進むことがあります。傷ついた人が、加害者からの真摯な謝罪や反省、以前の生活や関係に戻るための償いの努力を見たとき、これ以上責めるのをやめようと判断し、赦しが起る時があります。誠実な謝罪や償いは赦しへの大きな一歩です。

もちろん謝罪すれば必ず赦されるわけではありません。逆にたとえそのような謝罪が無くても赦されることがあります。大事なのは、赦すかどうかは本人が決めるということです。大事なのは赦すことを誰かに強制されたり、早く赦すべきだと周りがとやかく言ったりしないことです。本人が赦せないと思うなら、赦さなくていいのです。人が人を赦すことは難しく時間がかかります。では神様はどうでしょうか?

神様はどのように人を赦すのでしょうか。キリスト教では、よく私たちの罪は神様から赦されていると言います。神様は私たちを赦している、関係の回復を望んでいると考えます。きっとそうです。しかしどうでしょうか?私たちは本当に神様に赦されているのでしょうか。私が誰かを傷つけ自覚せず、反省もしていないとしましょう。しかし私の罪はすでに神様に赦されているのでしょうか。あるいは反対に私を傷つけたあの人は、一切の謝罪と反省がありません。しかしそれでもすでに神様に赦されているのでしょうか。私はまだ赦していません。赦すにはもうしばらく時間がかかるでしょう。しかし神様はあの人を、すでに赦しているのでしょうか。

神様はそのように罪を犯した横から自動的に、機械的に赦してゆく方なのでしょうか。違います。神様はそんな単純な方ではありません。神様はきっと私たちが自分の罪を罪と認め、もうしないと固く思うことを期待しています。そしてもう二度としないと誓う時に、初めて神様は私たちの罪を赦してくださるのです。それが神様の赦しです。私たちが自分の罪を認めるとき、神様の赦しがあります。相手は赦してくれないかもしれません。でも神様は私たちが罪を罪と認め、もうしないと誓う時、関係を回復してくださいます。もうあなたを責めない、赦す、もとの関係に戻る、あなたと共にいるとおっしゃって下さるのです。それが神の赦しです。そしてもし私たちが自らの罪を認めないなら、きっと神様は赦さないでしょう。

さて今日の祈りを見ましょう「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」は「私は罪を赦します。そして私の罪を赦してください」と祈られています。この祈りでは私は赦しますと祈っています。

赦しますと思っていない人、赦さない人はこの祈りは祈れません。おそらくほとんどの人の心に赦せないことがあるはずです。だから本当は「赦します」とは誰も祈れないはずです。人は人をそんなに簡単には赦せません。赦しには長い時間と、謝罪と償いが必要なのです。

しかしこの祈りでは「私は赦す」と祈ります。そこには私たちの矛盾と破れがあります。赦せないのに、赦しますと祈る、矛盾があります。そのようにこの祈りは祈れない祈りです。

でも私たちはその矛盾に希望を置くのかもしれません。赦せないのに赦しますと祈る、赦されないことが赦される、その矛盾と破れの中に私たちの希望があるのではないでしょうか。赦しが起るかもしれない、赦しが起きて欲しい、赦せないことから解放されたい、その矛盾が「赦します」という祈りなのではないでしょうか。

赦せないのに、赦しますと祈る、そのはざまに神様はいて下さるのではないでしょうか。人の命が傷つけられる罪があふれる世界です。そのような世界でもっと関係の回復、赦しが起きて欲しいと願います。人と人との関係の回復が起きて欲しいと願います。そしてたとえ人が人を赦すことができなくても、人が神の前に罪を認め、人と神との関係の回復が起きて欲しいと願います。

このような矛盾する希望がこの赦しへの願いには含まれているのではなでしょうか。これは本当に祈れない祈りです。今日は最後の主の祈りは祈らずにおきましょうか。でもやはり祈りましょう。赦せなくてもいいから赦すと、一緒に祈りましょう。