【全文】「人はパンのみで生きるのではない」ルカ4章1~4節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。今日は創立記念礼拝です。この教会が73年間、神様に守られたことに感謝します。そして74年目の歩みが守られることを祈ります。私たちは教会の歴史の大きな転換点にいます。今月はその転換点のきっかけになっている地域協働をテーマに宣教をしています。

私たちの教会では毎月第3・第4金曜日に「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。1食200円でだれでも利用できる食堂です。毎回100個のお弁当等と、70食の会食を提供しています。この食堂はもともと会食のみで営業を始めました。お弁当や持ち帰りへの対応はしていませんでした。しかしコロナの期間に、一緒に食べるということができず、やむをえずお弁当の販売を始めました。それ以来お弁当の販売も継続しています。当初はお弁当の方が人気で、中で食べる会食のお客さんは少なかったです。コロナで会食が心配ということもあったでしょうし、教会で食べるのがどんな雰囲気なのか不安というのもあったでしょう。家族で気軽に食べれるということもあって、たくさんの方がお弁当を買いに来ました。

しかしもともとこの食堂はあくまで会食をする場所として始めました。コロナも落ち着き、今は会食を積極的にお勧めしています。そして会食の利用者も増えてきました。合計170食の提供は会食する人が70名、会食の方が家族の食事分に持ち帰るお弁当が50食。お弁当だけの利用は50食です。今はお弁当より多くの方が「こひつじ食堂」を会食する場所として利用してくださっています。

なぜ「こひつじ食堂」はお弁当販売ではなく、会食を中心としているのでしょうか。利用者は家でお弁当を食べた方が気軽です。実はスタッフもお弁当の方が楽です。一度に作れるし、洗い物や配膳が無く、片付けも無い。お弁当の方が早く終わるのでとても楽です。会食は利用者にとってもスタッフにとってもお互いに面倒です。ですが、私たちは会食を中心にしています。それはこひつじ食堂が単に食事を提供することが目的ではないからです。ここは食事をするだけの場所ではありません。食事だけではなく、他者との関わりがここで生まれて欲しいと願っています。だからこそ会食をお勧めしています。人間は食べものだけではなく、関りが必要だからです。

教会に生活には困っている方が訪ねてこられて、支援をするときがあります。まず大事なのは衣食住です。食べ物、着る物、住む場所が大事です。ただこれは比較的すぐにそろえることができます。大変なのは衣食住の後の支援です。いろいろな支援が必要ですが私が意識しているのは医・職・友です。生きていくには、病院に行って健康になり、やりがいと収入のある仕事・職が必要です。そして友が必要です。どんなに健康で、お金も仕事もあっても、友がいなければ、何か嫌なこと、困ったことがあった時、向き合うことができません。友がいれば、愚痴を言いながらも仕事が続けられます。友がいれば様子の変化を見守ってくれます。衣食住だけではなく、友がいること、友になってゆくことは、生活をしてゆく上で非常に大事なことです。

私たちが会食に積極的に招き、一緒に食べることを大事するということも同じだと思います。食事は生きるために必要で最優先のものです。でも私たちは食べ物を提供するだけではありません。私たちは友ができる場所を提供したいのです。人間は食べるだけではありません。人間には友、仲間が必要です。つらい時に話を聞いてくれる友、励ましてる友、一緒に愚痴ってくれる友がいなければ、やっぱりまた人生がうまくいかなくなってしまうのです。だから私たちはこの食堂を、手間がかかっても会食を中心にしたいと考えています。もちろん様々な事情がある人がいるのでお弁当の販売も続けますが、この食堂を友ができる場所、友と集う場所、友と一緒に食事ができる場所にしたいと思っています。

人はパンのみで生きるのではない。本当にイエス様のおっしゃる通りです。「こひつじ食堂は弁当のみで開催するのではない」です。人はパン以外のもの、人との関わり、友が必要です。友との会食が必要です。私たちにはお腹を満たすだけではなく、友が必要なのです。今日はイエス様の「人はパンのみで生きるのではない」そのことから、食堂の働きと私たちがどう生きるかを考えたいと思います。今日の聖書箇所を読みましょう。

 

 

今日はルカによる福音書4章1~4節までをお読みいただきました。悪魔はイエス様に「石をパンに変えてみよ」と言いますが、それに対してイエス様が答えた言葉が「人はパンのみで生きるのではない」という言葉でした。マタイ福音書にも似た箇所があり、そちらの方が有名です。今日の個所をよく見て発見しました。マタイでは「人はパンのみで生きるのではない」の後に「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」が付け加わっています。しかしルカには「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という言葉が無いのです。

ルカ福音書ではイエス様は「人はパンのみで生きるのではない」とまでしか言っていません。ルカ福音書では、大事なのはパンだけではないと言いながらも、一体何がパンと並んで大事なものであるのかが、明らかにされていません。 マタイ福音書を読むと、食糧であるパンよりも、宗教的な養いの方が重要であると言っているようにも聞こえます。食べる、食べないよりも、宗教の問題の方が大事だと言っている様に聞こえます。当時のイエス様はどんな発言だったのでしょうか、気になります。

いずれにしてもルカもマタイも、イエス様は人間は食料だけで生きるわけではないと言っています。そしてルカはパン以外にも何か必要なものがあると言っています。パン以外に必要なものがあるとしたら一体それは何でしょうか。たくさんの必要なものを想像します。私たちは特に聖書の言葉に勇気をもらっています。食べ物だけではなく、聖書の言葉に元気をもらって生きています。希望をもらっています。それが大事です。マタイもそう思って「人はパンのみで生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」を付け加えたのでしょう。

そして私たちには食べ物と聖書の言葉以外にも生活に必要なものがあるはずです。私たちには先ほどご紹介した衣食住に加え医職友が必要です。特に私たちには友が必要です。人生には落ち込む時、病気の時、うれしい時があるものです。その時、その人生には誰か一緒にいてくれる人が必要なのです。一緒に落ち込み、一緒に喜んでくれる人が必要なのです。

しかし今、友を得るということはとても難しいことです。私たちはこの地域に友達ができるという様な場所が少ないということを知っています。私たちはこの地域に友達と一緒に気軽に食事をできる場所が少ないことを知っています。友を得る必要はわかっていても、なかなかそれを得ることができないのです。私たちの教会はそのような友に出会いの場所になりたいと願っています。人が集まり、出会い、一緒に食べ、友となることができる場所になりたいのです。聖書が言っている通りです。食べる物があればそれでいいのではありません。人はパンだけで生きるのではないからです。人は友が必要なのです。この食堂で友達同士になる人ができたらいいと願っています。そしてすでに多くの人が友達になっています。何回かくると互いの顔を覚え、挨拶するようになったという人がいます。

このようにして誰かと一緒に食事していると、きっと感じるはずです。「私は食べ物だけで生きるのではない」と。そう気づくはずです。このような友との温かい関わり、食事があるからこそ、自分は生きることができると感じるはずです。それは聖書が教えていることです。それは聖書の教えを身をもって体験するということです。この教会で食事をすることによって「食べるだけではなくて、友がいるのが私には必要だ」それを知ってくれたら、気づいてくらたらうれしいと思います。

教会は直接、こひつじ食堂の人たちに聖書のみ言葉を教え伝えるわけではありませんが、このように聖書のみ言葉を体験することができる場所になっています。教会はそのように地域の中で友を作る場所、いつの間にか聖書の言葉を体験している場所になってゆきたいと思うのです。

私たちのことも考えましょう。聖書の言葉によってつながっている友は特別に親しくできる友でしょう。同じ言葉を知っていて、心の深い場所で共感ができる大切な友です。特別にお互いを大事にしましょう。私たちも繰り返し礼拝に集い、一緒に食事をし、互いに励まし合い、喜び合い、悲しみあうことを大事にしましょう。イエス様はきっとそのことを教えて下さっています。

人はパンのみで生きるのではありません。他にも必要なものがあります。特に友が必要です。人はパンのみで生きるのではありません。特に私たちは聖書の言葉から励まされています。聖書の言葉が必要です。人はパンのみで生きるのではありません。私たちには神様の言葉と仲間が必要です。私たちはどちらも大事にしてゆきましょう。

また今日から私たちの1週間がはじまります。1週間どんな生き方をしましょうか。人はパンのみで生きるのではありません。私たちは一緒に食べる事を大事にしましょう。誰かの友達になることを大事にしましょう。人はパンのみで生きるのではありません。神様がよくご存じです。神様はきっと私たちに友を得ることができるように、私たちを導いてくださるはずです。お祈りします。