みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。今日からは1ヶ月間「地域協働」ということをテーマに宣教をしたいと思います。特に私たちは「こひつじ食堂」というこども食堂の運営から様々な刺激を受けています。食堂で起きていることから、私たちの教会のことを考えてゆきたいと思います。
私たちは2020年から「こひつじ食堂」という毎月第3・第4金曜日にだれでも1食200円で利用できる地域食堂を始めました。この数年でキリスト教の教会でも、こども食堂をはじめる教会が増えてきました。多くの教会系のこども食堂があります。その中で私たちの「こひつじ食堂」の特徴は何でしょうか?いろいろあると思うのですが、他の教会との一番の違いは地域のボランティアさんたちの存在です。私たちは毎回20~30名のスタッフで運営していますが、教会員のみで運営しているのではなく、スタッフの半分は地域の方たちです。地域の方と一緒になって食堂をする教会、さらに半々でやっている教会は、まだとても珍しい存在です。
教会の活動だから、教会の人でできる範囲でやるというのは正しいと思います。私もボランティアの募集を始める時はかなり戸惑いがありました。教会の働きに地域の人が加わることが、どんな影響があるか想像できませんでした。想いも動機もまったく違う人が教会で一緒に活動できるのだろうか?私たちは信仰的な動機で奉仕として活動しているけれども、地域の“ボランティアさん”と一緒に活動してうまくいくのだろうか?すれ違いがたくさん起きるのではないかと思いました。しかし何も心配する必要はありませんでした。実際に働いてみると、考えていることや動機が多少違うことは、活動にまったく関係がありませんでした。
もちろん、最初に趣旨や目的を丁寧に説明をしています。そうすることで私たちはボランティアさんと、誰かのために働きたいという目的で一致することができました。どんなに動機が違っていても目的は同じです。目的のために一生懸命働くということに何の違いもありません。考えていることや動機は違っても、同じことのために一緒に働く、それができれば十分なのではないかと思っています。
地域の食堂の一覧などで平塚教会の名前をよく見かけるようになりました。地域の方はよく教会を協会(協力する会)と字を間違えます。私はその時「私たちの教会は協力の“協”ではなく、教えるの“教”です」と訂正しなければなりません。でもこの訂正をするたび息苦しい思いがしています。自分は教える側ですと言っているような気がするのです。私たちは教える側なのでしょうか。少なくともここには偉い先生が、何かを教えてはいません。
ここは生き方を一緒に考える場所です。信仰について、愛と平和と希望について考える場所です。誰かが上から教え、誰かが教わる場所ではありません。学び合う場所です。そして今の平塚教会は誰かのために一緒に働き、誰かと一緒に食事をする場所です。
間違えを訂正するたびに、今の平塚教会は本当は、協力の協の協会の方がふさわしいのではないかと感じています。なぜなら平塚教会は地域の人と力を合わせて、誰かのため、自分のため、地域のために、神様のためにある場所だからです。よく見ると協会の協の字は、十字架に力が3つ集まっています。平塚教会はまさしく十字架の下で力を合わせる場所です。私は今、教える教会よりも、協力する協会の方が私たち平塚バプテスト教会にはふさわしい様に感じています。今日は聖書からも、協力すること、協力する集まり、きょうかい(協会・教会)について考えたいと思います。
今日はルカによる福音書9章10~17節をお読みいただきました。後半は私たちの週報の表紙にもある年間主題聖句です。5000人の食事の場面です。私たちはこれまで数年間、繰り返し平塚教会はこの5000人の集まりの様だと見て来ました。平塚教会はパンと魚、たくさんの食べ物の寄付が集まる教会です。食べ物がどんどん増える教会です。一緒に食べることを大事にする教会です。食堂利用者が5000人を超えた教会です。13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。これは私たち平塚教会に語りかけられた「あなたがたが食堂をしなさい」という命令です。私はここを勝手に“大食堂命令”と名前を付けています。私たちは日本一、世界一、この5000人と共通点がある教会で、私たちはイエス様の大食堂命令によって突き動かされているのだと紹介をしています。
今日は特にこの5000人の食事の中で、どれだけの協力があったのかを考えてみたいと思います。この5000人はどんな協力をする集まりだったのかを考えたいと思います。
5000人の食事とはどれだけの規模の食事でしょうか。とにかく広大な面積に、たくさんの人がいました。むこうの人はかすんで見えたでしょう。その場所で協力するということを想像しながら聖書を読みます。これだけ広い場所で、全員が同時に食事をするのは相当大変です。たくさんの準備と協力が必要だったはずです。これは食事の準備に苦労している教会、独特の視点です。特に16節「弟子たちに渡しては群衆にむけて配らせた」について想像します。
私たちは150食作るのに毎回20人~30人のスタッフ、食数に対して20%くらいのスタッフが必要です。5000人いたらスタッフは何人必要でしょうか。私たちの感覚を当てはまめると5000人の20%は1000人です。この5000人の食事にはおそらく1000人の協力が必要だったはずです。「これから全員で食事をします。このパンを運ぶのを手伝ってください」大きな声が響いたでしょう。あっという間に1000人のスタッフが集まりました。当時のパンは一人3つで満腹になると言われていました。15000個のパンを配らなければいけません。
私ならこのように協力をお願いします。1000人のスタッフの内、半分の500人はそれぞれ一人30個のパンをもって、ひとり3個ずつ、10人に配ってください。別の500人もそれぞれ一人10人に魚を配ってください。落としたり、転んでケガしないように注意してください。端っこグループに届けるのはかなり遠いです。近くに運ぶ人は自分の分が終わったら、遠くに運ぶ人を手伝ってあげてください。4000人に運び終わったらスタッフの方1000人もどうぞ一緒に食べてください。今、イエス様が歌って、祈って、裂いて、増やしていますから。おかわりは何回でも自由です。食べ終わって、余ったものは集めてこの籠にいれてください。最後の片付けもご協力をお願いします。そんな風に協力を求めたでしょうか。
始めてこのような想像をしましたが、ここはきっと5000人が食べただけではありませんでした。今なら私たちはそこに1000人スタッフが力を合わせて食事を運んだことを想像できます。手伝う1000人もスタッフとして協力することも楽しんだはずです。みんなで準備するからこそ、食事の楽しさ、にぎやかさがあったでしょう。この食事は大勢が大混乱の中で、にぎやかさの中で、満腹になる食事を楽しんだのです。
16節には「弟子たちに渡して群衆に配らせた」とあります。文法上、配ったのは群衆ではなく、弟子たちだったとあります。群衆が配ったわけではありません。群衆に向けて弟子が配ったと書いてあります。でも私は思います。配った人がイエス様の弟子だったかどうかあまり関係ないのではないでしょうか。5000人の食事にはとにかく1000人のスタッフが必要でした。1000人いれば誰が弟子で、誰が弟子ではないかは関係なかったはずです。弟子か、弟子ではないかを超えて、そこにいた15節「このすべての人のために」、全員が食べることができるように、1000人がこの食事を手伝ったのです。1000人すべてが弟子だったわけではないと思います。実は1000人の動機は1000とおりあって、みんなそれぞれ一生懸命働いたのです。そのような垣根のない協力が起きたのが5000人の食事だったのではないでしょうか。少なくとも12人の弟子が5000人の食事の準備をしたのではありません。そこには間違えなく弟子かどうかを超えた、大勢の協力がありました。与える側、もらう側と別れていたわけでもありません。みんなで準備して、みんなで食べて、みんなで片付けたのです。みんながみんなのために働いたのです。私たちは今、こひつじ食堂でそれと同じ光景を毎回見ています。
今の私たち教えることよりも、協力することを大事にしていると言えるでしょう。だとするなら私たちは教会よりも協会の方がふさわしいかもしれません。そして私たちはもっとみんなと力を合わせる場所になることはできないでしょうか。この食事の様に、イエス様の奇跡の周りで一緒に働く1000人になることが出来ないでしょうか?私たちの教会の事、そして私たちの生活のこともそうです。私たちは垣根を超えて、いろいろな人と協力することがもっとできるのではないでしょうか。それぞれに考えてみたいのです。
私たちはこれから主の晩餐を行います。主の晩餐にも、パンとブドウジュースの準備をしてくださった方や、配餐というお皿を持って回る奉仕者がいます。カップを洗ってくださる方がいます。感謝です。今は執事が多くを担っていますが、そうでなくてもいいと思います。私たちもこの1000人のようにみんなで担ってゆければよいと思っています。このあと主の晩餐を行います。この5000人の食事を思い出してパンと杯をいただきましょう。お祈りします。