【全文】「パン作りから考える生き方」ルカ13章18~21節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

4月5月と信仰入門というテーマで宣教をしてきました。今回と次回で終わりになります。紹介できたのは聖書の本当に一部分だったと思います。聖書は全体で3万節くらいありますが、今日はその中の4節についてお話をします。私たちはこのように少しずつ聖書を読み、どう生きるべきかを考えています。今日はたった4節ですが、きっと私たちの生き方を指し示すものとなります。本当に一部分ですが、ご紹介できたらと思います。

今日はからし種のたとえと、パン作りのたとえの話をします。この個所は18節「神の国は何に似ているだろうか、何にたとえようか」というイエス様の疑問から始まっています。神の国についてイエス様が説明をしようとしているところです。

ちなみに、神の国とは死んだ後に行くあの世、天国とは全く違います。神の国は死後の世界ではありません。神の国とは、神様が求める、理想の世界のことです。神様の支配とも言い換えることが出来ます。神様の願っていることが、隅々に渡って実現してゆく場所、それが神の国です。それは私たちの生きている地上、世界全体で実現してゆくものです。世界が神様の理想通りになる日は果たしていつ来るのでしょうか。私たちにはわかりません。でもイエス様はそれはやがて必ず来る、実現すると言っています。もう始まっていると言っています。今日のこの話はその神の国、神様の求める世界がどのように実現されてゆくのかを話しています。私たちの世界はどのように変わってゆくのか、神の国がどのように実現してゆくのかをイエス様は説明しようとしています。

からし種という言葉がでてきます。からし種とは要はマスタードの粒です。ピリッと辛いあのマスタードの種です。後ろのテーブルに聖書植物図鑑が置いてありますので、クロガラシという植物がどんなものか後でご確認ください。からし種は他の植物よりも小さな種です。しかし小さいにも関わらず、この種は嫌われ者の一面があります。からし種は繁殖力が高く、一粒地面に落ちると、ものすごいスピードで広がってゆくのです。そのため農民の間では畑の近くには絶対に植えてはいけないと言われている植物でした。私たちからすると手ごわい雑草のようなイメージでしょうか。一度根付いてしまうと抜いても抜いても無くならない雑草です。

イエス様はこのからし種を神の国に似ていると言いました。神の国を、あまりみんなに好かれていない、嫌われている植物が、大きくなる様子に似ていると言います。そしてその枝でやがて鳥が休むようになる、そこが憩いの場所となる、そのように神の国は実現すると言っています。どんな意味でしょうか。

おそらく神の国、神様の求める世界は、ハウス栽培、温室育ち、純粋培養で育つのではないということでしょう。最初はみんなに嫌われているような場所から、踏みつけられてるような場所から、神様の理想は始まるということです。神の国は、やっかい者から始まります。神の国はここには来て欲しくないと思われる、異物のような存在として始まります。神の国は周りからは好かれない、異物と感じられていたものから始まるのです。でもそれが広がり、神の国が始まるとそこは憩いの場所となるのです。不思議な話です。

 

 

続くのはパン作りの話です。この話は聖書には珍しく女性が主人公のたとえ話です。女性が主人公のたとえ話が少ないのは、おそらく当時の女性の身分が低かったからです。女性は男性の所有物とされたからです。しかしイエス様は大切なたとえの主人公に女性をあてました。

たとえの女性は3サトンの粉からパンを作るとあります。聖書の後ろには単位の換算表がついています。3サトンとは実は34kgに相当する大量の粉です。この粉からできるのは約100人分のパンです。34kgの粉を混ぜるのは相当な重労働です。一人でこのような重労働をしていたのはおそらく貧しい女性か、奴隷や下働きの女性だったでしょう。主人公は大量のパンを作る女奴隷です。そしてこれは神様の役割でもあります。神の国の実現の担い手となる女奴隷の話です。まず女性は粉にパン種を混ぜます。パン種は現代の私たちが想像するイースト菌ではありません。パン種とは要は腐りかけのパンです。当時は残って腐りかけたパンを粉に混ぜてパンを発酵させたのです。これのおかげでふわふわのパンになります。

一方、聖書におけるパン種は、からし種と同様、あまりいいイメージでは使われないものでした。聖書でパン種は、不浄、悪、腐敗の象徴としてよく登場します。例えば「ファリサイ派の人々のパン種に気をつけなさい。それは偽善である」と使われます。不浄、悪、腐敗のイメージです。聖書にはさらに種無しパンというのも登場します。種無しパンは発酵させないのでクラッカーのような固いパンです。そして種無しパンはパン種と正反対に、聖なるものというイメージがあります。腐敗の象徴であるパン種が入っていないことから、聖なるパンというイメージがあります。しかしイエス様は神の国は聖なる種無しパンのようだとは言いませんでした。イエス様の教えた神の国とは不浄を象徴するパン種が大量の粉の中に混ぜられていくイメージだということです。一握りの汚れたように思えるもの、腐敗したように思えるものが、多くの聖なるものと言われる中に入って来る、それが神の国だと言ったのです。それは異物です。パン種はからし種同様、本来はそれと距離を置いて、影響を受けないように、汚されない様にしたいと思う対象です。しかし神の国では違います、神の国ではそれらは混ぜ合わされるのです。しかも混ぜるのは奴隷の女性です。

ここには神様の働き、神様がどのように神の国、神様の願う場所を作られるのかが書かれています。神様はこのように、汚れていると言われるものと、清いと言われているものを混ぜ合わせるお方です。そしてそのようにして、神の国、神様の理想の場所を作ろうとするお方です。神様はパン種と粉を混ぜて、こねて、発酵させ、おいしいパンを作るのです。

それが、イエス様が人々に教えた「神の国」でした。民衆はびっくりしたでしょう。神の国が私たちのイメージとは違うのです。私たちは、神の国とは汚れがなく、曇りなく、不純物が徹底的に取り除かれた先にあるのだと想像します。でもイエス様は違うと言います。神の国、神様が喜ぶ世界とは、雑草が茂るように好かれていない人やものが共に混ざり、やがて憩いの世界となるのです。神様が喜ぶ世界とは、腐敗したパン種と粉が混ぜ合わされて、おいしいふっくらとしたパンになるような世界なのです。民衆たちもこの話にはひっくり返されたように驚いたでしょう。

 

 

さて、この話から私たちの生き方と目指す世界、神の国の実現を考えてゆきたいと思います。私たち一人一人はどうやって生きるでしょうか。私たちの人生には異物と思えるものや異物と思える事柄に出会うことがあるものです。自分が一緒にいるのに心地悪い存在があるものです。

からし種とパン種を聖書の教えと置き換えてみましょう。もしかすると聖書の教え自体もそのような異物かもしれません。聖書の教えは自分とは相いれない価値観、聞いたことのない価値観、納得できない価値観かもしれません。私たちは聖書において、自分と全然違う考え、反対の考えに出会います。しかし聖書によれば、それから全体が変化し、神様の理想へと近づいてゆくのです。

イエス様は聖書の教えが自分と違うものがあなたを豊かにすると言っています。それは一度入り込んだら繁殖力がつよいのです。最初はちょっと意味がわからない、自分とは違う違和感があるものです。しかし、やがてそれに癒されることになります。聖書の言葉が私たちにとってきっとそうなるはずです。

神様は私たちの人生に様々な出会いを与えます。からし種とパン種をそれぞれの出会いと置き換えてみましょう。それぞれが生きる場所では自分と全然違う人との出会いがあります。私たちはそれに戸惑い、イライラしながら生きています。でも神様はきっと混ぜ合わせてくださるお方です。私とあの人をパン種と粉のように、どちらがパン種でどちらが粉だかはわかりませんが、神様はこの二つを混ぜ合わせ、パンとするお方です。そしてやがて、その混ざり合わされたものが、心地よく、柔らかく感じるようになる時が来るはずです。

私たちはどのように神様の理想とする世界を実現できるでしょうか。聖書によればそれは、相応しいと思われる者だけが選ばれ、選抜された世界ではありません。そのような選抜された、選び抜かれた人の世界は神様の理想ではありません。むしろ厄介者、汚れていると言われている者を通じて、自分とは相いれない価値観を通じて、聖書の言葉を通じて、神様の理想は実現されてゆくのです。

神様は私を、私と違う人や違う教えと出会わせ、そしてまぜこぜにします。そこに新しいことが生まれる、それが神様の理想です。私たちはそのようなまぜこぜの世界をめざしたいのです。全く違うお互いが混ぜられて、練られて、違う教えにもまれ、変わってゆけるような世界を目指したいのです。私たちの次の1週間、どのように自分と違う人と共に、聖書の教えと共に生きてゆくことができるでしょうか。それぞれの場所で神の国が実現するように願います。お祈りします。