【全文】「パンを食べる儀式の紹介」ルカ22章14~23節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。4月・5月と信仰入門というテーマで宣教をしています。教会に初めて来た方、来て間もない方に向けてキリスト教について紹介をしたいと思っています。また、長く教会に来ているという方には、ぜひ初心に戻る機会になるようにと願っています。私たちは聖書について知っているつもり、理解しているつもりでいても、実はあいまいな部分も多いものです。一緒に考えてゆきましょう。

今日は、キリスト教がとても大事にしている「主(しゅ)の晩餐(ばんさん)」という儀式についてご紹介をします。他の教会では「聖餐(せいさん)」とも呼ばれる儀式です。この儀式はこの後、礼拝の中で行われます。小さく切り分けられたパンを食べて、小さいグラスに入ったぶどうジュースを飲むという何とも不思議な儀式です。説明なしにはじまると怖いですね。

私たちの教会ではこの儀式を毎月第一日曜日に行っています。そしてこの教会では洗礼・バプテスマを受けたクリスチャンの方のみ、これを食べ、飲むということにしています。洗礼・バプテスマを受けていない人はどんなことをしているのか見守っていてください。洗礼・バプテスマを受けていない方は、食べたことがないと思いますので、これが一体何かということをご紹介します。

食べているのは普通に市販されている食パンと、ブドウジュースです。誰かの血ではありません。担当の方が朝少し早く来て、食パンを小さく切り分けて、お皿に並べてくださいます。またブドウジュースをこぼれないように、小さなグラスに分けて下さっています。私たちの教会では市販されている食パンを使っていますが、教会によって食パンではなくクラッカーのようなものだったり、ブドウジュースではなく、ワインを使っていたりします。またパンをその場で切り分けたりする教会、毎月1回ではなく毎週やるという教会、クリスチャンに限らず誰でも食べてよいという教会もあります。教会によっていろいろな意味づけがあって、作法が違っています。

このパンを食べるとどうなるのでしょうか。のどが熱くなり、特別な力が湧いて、奇跡的な力が宿る、魔力がつくということはありません。これを食べると、汚れが取り払われて聖なる者になるのでもありません。何かのご褒美であったり、偉い人が食べるわけでもありません。

なぜこのような儀式を行うのかを説明します。簡単に言うと、このパンとブドウジュースは、聖書の話を思い出すために行っています。教会風に言うと、イエス様を記念するため、つまり思い出すために食べて飲んでいます。記念するとは何でしょうか。それぞれに皆さんには記念日があると思います。週報にも教会の方の洗礼・バプテスマを受けた記念日と、誕生日が記載されています。記念日は生まれた日や新しい人生を歩み出した時のことを思い出す日です。出会った記念日、交際を始めた記念日、結婚記念日、命日、祝日も記念日の一つでしょう。あの時はこんな気持ちだった、あの時はうれしかった、今思うと〇〇だった、そんなことを思い出す日です。記念日とは、その日の出来事を思い出し、これまでの人生に感謝する日です。それが記念するということです。

今日のパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式も同じように「記念」として行われます。目的はイエス様との食事、イエス様との時間を思い出すことです。そしてそこから今までの人生を振り返り、感謝することです。私たちは直接はイエス様と会ったわけではありませんが、聖書の物語の中に自分たちを置き、イエス様の行動を思い出すために、この儀式を繰り返しています。そのようにして、主の晩餐は2000年間続いています。

なぜ、食べる事と飲むことによって、記念することになったのでしょうか?他の方法で記念するということもできたはずです。なぜ食べる事と飲むことによって記念することになったのか、それはイエス様が聖書の中で何度も食事をしたからです。イエス様はいろいろな人と食事をしました。イエス様は絶対一緒に食事をしてはいけないと差別された人と一緒に食事をしました。分け隔てのない、食事をすることが多くの人の共感を呼んだのです。聖書には食事の場面がたくさんあります。5000人の食事、差別されていた人との食事、宗教指導者との食事、弟子たちとの食事、楽しいお祝いのような食事、緊張が走る食事、利害関係の中にある食事、お別れ会のような食事など様々です。私たちはイエス様がこのように様々な食事をしたことを思い出すために、パンを食べ、ブドウジュースを飲んでいます。真剣にこの儀式をやっています。聖書には様々な食事があり、それらを思い出すために主の晩餐という儀式があります。今日は様々な食事の中でも「最後の晩餐」と呼ばれる箇所をご紹介します。

 

今日の聖書はルカによる福音書22章14~23節です。イエス様の活動、一緒に食事をする活動、そして互いを愛し合いなさいという教えは多くの人を巻き込み始めていました。ブームが起き始めていたのです。しかしそれを気に入らない勢力もいました。愛し合って生きるということを邪魔しようとした人がいたのです。そして最後にはイエス様はその人たちによって、十字架に架けられ殺されてしまいます。その時、弟子たちはイエス様を守るどころか、見捨てて、逃げ出してしまったのです。

十字架に架けられる前、おそらくイエス様はこのまま愛の教えを続けたら、殺されてしまうだろうと考えました。そして弟子たちはきっと逃げてしまうだろうとわかっていました。だからイエス様は弟子たちと最後の食事をすることにしました。今日の場面を最後の晩餐と言います。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐という絵画はこの風景を想像して書かれた絵です。

この食事には偉い人、特別な人がいたわけではありません。この食事は反省や悔い改め、自分の悪いところを点検する目的があったわけではありません。弟子たちはただ集められて、あなたたちはこの後裏切ってしまうだろうと言われています。イエス様はこういったのです。この後、君たちは私を裏切ってしまう、私の教えを忘れてしまう。だけど、私と一緒に食べたこと、一緒に過ごしたこと、教えられた愛を忘れないようにしなさい。パンとワインの儀式を繰り返して、私と一緒にいたことを記念し、思い出しなさいと言ったのです。そしてこの後イエス様は十字架にかかります。私たちはこのパンとブドウジュースを飲むことによって、イエス様がした事、教えた事、十字架にかかったことを記念し、思い出しています。

この食事の時にイエス様が言った言葉が19節・20節にあります。この言葉は主の晩餐の儀式の中でも読み上げられます。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

イエス様は食事の時、パンをとってこれは私の体だと言いました。その意味はこのパンはイエス様との食事を象徴するものであるとともに、イエス様の体、そのものを象徴するものでもあるということです。イエスはパンをちぎりながら、私もこのパンのようにひきさかれるだろうと言ったのです。これは私の血だとも言っています。ブドウジュースは十字架で流されるイエス様の血も象徴しているのです。私たちの儀式には思い出すことに加えて、十字架のイエス様を食べるという意味もります。

18節には「神の国が来るまでは、二度と飲まない」とあります。神の国とは死後の世界のことではありません。神の国とは神様が喜ぶ世界のことです。この地上が神様の喜ぶ、平和な世界になることが神の国が来るということです。18節の強調点は「もう飲まない」ではなく、神の国が来るとき「また飲む」という点です。イエス様はこれから悲しいことが起きるが、神の国、神様が喜ぶ世界になる時が必ず来る、その時はまたこうやって一緒にお祝いしようと言っています。要は、いつか一緒にまたこうやってご飯を一緒に食べようねという、イエス様の約束です。これは未来に向けての希望でもあります。またいつか、一緒に食事ができる日が来る、その約束を待って、神の国を願って、私たちはこの儀式をするのです。

最後に23節を見ましょう。残念ながら、弟子たちはイエス様の伝えようとしたことを理解していなかったようです。パンを食べ思い出すこと、記念すること、神の国・平和な世界を願う事は弟子たちには伝わりませんでした。弟子たちは、誰が裏切るのか、誰が悪い奴か、誰が不適格かを議論しだしてしまったのです。これでは思い出す儀式、主の晩餐にならなかったはずです。これは悪いお手本です。

まとめます。この後、私たちは主の晩餐を行います。このパンとブドウジュースはイエス様の愛の教え、生き方、十字架を象徴するものです。私たちはそれを思い出すために、記念するために、この儀式を持ちます。そして私たちは神の国を願ってこの儀式をします。神の国、神様が求める愛と平和にあふれる世界が来ること、その時をイエス様とまた一緒に祝うことが出来るような時が来ることを願って、私たちはこの儀式を行います。私たちはパンを食べブドウジュースを飲むことによって、イエス様の生き方を思い出し、その生き方を自分の生き方とし、神の国を求めてこの主の晩餐を繰り返します。賛美の後、主の晩餐を行いましょう。お祈りします。