今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。 ルカ6章21節
今月と来月は信仰入門というテーマで宣教をしています。今日の個所は、イエス様の説教として有名な個所で「幸いである」という響きが親しまれている箇所です。イエス様は2000年前、現在のパレスチナで活動をしていました。たくさんの人が従いました。その人々の多くは極めて貧しい人々だったと言われています。イエス様に従ったのは貧乏で、お腹が空いていて、泣いていて、元居た場所から追い出されてきた人の集まりだったのです。
しかし今日読んだ箇所では驚くべきことがあります。それはイエス様が、どう見ても幸せには見えない人々に向けて「あなた方は幸いである」と断言をしているという事です。イエス様は「幸いだ」「大丈夫だ」という希望を断定的に、一方的に宣言しています。それはイエス様が彼らに約束をしているとも言えるでしょう。涙は笑顔に変わる、追い出されて嫌われていた人は受け入れられ愛される、そう約束をしているのです。これは今悲しくても笑える日が来るという極めて単純な希望です。明るい未来がある、大丈夫だということです。単純で、幼稚とも思える希望が聖書には書かれています。
ここには、神様から幸いについて理由の説明が一切ありません。この宣言には一切の根拠と説明がないのです。なぜ大丈夫なのか、なぜ幸せなのかまったく根拠や理由が示されないまま、ただ神様があなた方は大丈夫だ、あなた方は幸いであると一方的に宣言しているのです。神様はこの様にまったく根拠のない幸いを宣言します。神様は一切の根拠なく、一切の変化や努力も求めず、ただ私たちの幸いを約束しています。でも神様を信頼する時、私たちにとってそれは大きな希望、大きな安心へと変わってゆきます。私たちの希望は極めて単純です。
私たちの生き方について考えます。人生にはなんともならないことが多いものです。誰かに簡単に「大丈夫だ」なんて言われたくないことばかりです。誰かの苦労に簡単に「大丈夫だ」と言ってあげることができないことばかりです。でも神様は違います。神様はとても単純です。神様は「大丈夫」「幸いである」「なんとかなる」と言っているのです。私たちはそんな単純な希望を信じています。私たちの中に何か根拠があるわけではありません。でも神様が大丈夫、幸いであると言うならば、そうなるのかもしれないと思って歩んでいるのです。だから神様を信じる人にとって、神様を信頼する人にとって、この言葉は大きな希望の言葉なのです。
このように神様を信じると、根拠のない希望が与えられます。神様を根拠とした希望が与えられます。神様から一方的にいただく希望が私たちに迫って来るのです。みなさんにもその希望を受け取って欲しいと願っています。「幸いだ」と宣言してくださる神様を信頼し、共に歩んでゆきましょう。お祈りします。