【全文】「どう信じるか、復活」ルカ24章1~12節

 

 みなさん、おようございます。今日はイースターです。イースターおめでとうございます。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。

今月・来月と信仰入門というテーマで宣教をしています。初めて教会に来るという方、もっとキリスト教について知りたい方、よくわからないけど興味があるという方を特に歓迎する期間にしたいと思っています。どうぞ礼拝に加わってください。

多くの人は教会にはキリスト教を信じている人が集まっていると思っています。初めて教会に来る方は、熱心に信じてる人の中に、興味半分の私なんかが行っていいのだろうか、そんな風に思うのです。でも実は教会に集まっている人は、信じている人だけの集まりではありません。そして「信じている」という人も実は、聖書の事に疑問に思ったり、ある部分についてわからない、信じられないと思ったり、わかったつもりだったのに分からなくなってしまったりしています。

教会はこのように、信じている人の集まりというよりも、信じたいと願い、探している人が集まる場所です。疑問や問いを持つ集まりです。わかっているような顔に見えるかもしれませんが、実は一人一人わからないことだらけです。そのようにして、みんな教会に集っています。教会は信じきれない人の集まりです。みんな実はいろいろ疑問に思っています。でも長く教会に通っていると、疑問だと思わなくなってしまったり、本当は疑問に思っていても忘れてしまうものです。そこに新しい方が来て、わかりませんと質問をしてくださるのはとても貴重です。他の人が「私もそこを疑問に思っていた」と思い出すことができるのです。教会はそのようにしてまた、問いと疑問を持ち続けることができます。教会はだからこそ、いつも初めての人を、初めての方の率直な疑問を歓迎しています。

今日は特にイースターという日です。キリスト教の信仰の中心には、十字架で死んだイエスが復活したという信仰、復活信仰があります。私たちが日曜日に礼拝という集会をするのも、イエスの復活が日曜日の朝だったということに由来します。クリスチャンになるにあたってイエスの復活、これを信じるのはなかなか難しいことです。イエス・キリストが十字架で死んだあと、復活したと信じるのです。他の事柄と同じように、クリスチャンならば復活を信じて当然と思うかもしれません。

しかし、よくよくみんなの話を聞いていると、ある人はこういいます。小さい頃からそういうものだと教えられたのでそう信じています。別の方はこう言います。聖書に書いてあることを疑いなく、そのままを信じているし、そうでなければ信仰とは言えない。別のある人は復活についてはよくわかりませんと答えます。クリスチャンといっても、復活の出来事をそのままを猛烈に信じている人ばかりではないのです。

キリスト教にとって復活をどう考えるかは大問題です。私たちのバプテストというグループは自由を大事にするグループです。特にこう信じなければいけないというものはありません。ですから復活を信じるといっても、その復活のイメージは実はひとりひとりで違うのです。みんなが復活を信じているといっても、その復活のイメージがひとりひとり違うのです。普段あまり話さないのですが、それぞれにイメージがあり、かなり幅があり、少しずつ違うのです。復活とは何でしょうか。

復活とはただの心肺蘇生を指すことではないでしょう。一度心肺停止になったが、もう一度心臓が動き出したことは、復活ではありません。仮死状態、気絶状態だったという理解も私たちとは違います。イエスは間違えなく、徹底的に十字架で死にました。生き返りようがないほど死にました。どん底を味わって、そこから何かが起きたのです。

肉体は死んでも魂はよみがえったと信じるのはどうでしょうか。肉体は死んでも魂がみんなの心の中に残り、永遠にいる、それこそが復活だと考えるのはどうでしょうか。死んでしまったけど、みんなの心の中にはもう一度イエスが来た、今も私たちの心の中で生きているという復活理解です。それならば、信じるというハードルはずいぶん低いでしょう。でもイエスの復活を、私の心の中の出来事と結論づけてしまってよいのでしょうか。この後イエスは「私には肉も骨もある」と言っています。復活は心の中の問題ではないはずです。

心理学から考えると復活は幻視体験です。弟子たちはリーダーが十字架刑で殺されるという強いストレスを受けて、復活のイエスの幻を見たのです。これは行き過ぎた復活の理解かもしれませんが、これには復活理解のヒントもあります。それは、弟子たちは本当に見たという自覚があるということです。単に心の中の問題ではなく、弟子たちは確かに見た、はっきりと見たのです。何時何分に会った、そこには肉と骨があったという、実体験として本人には理解されています。これは聖書の記述と多くの共通点があります。

私はこの復活を聖書の記述通りに信じるでもいいし、様々な背景があって起こったと信じるのでも、どちらでもよいと思います。では牧師であり、宗教者である平野は何を信じているのか。どう信じているのかと問われるかもしれません。復活とは何でしょうか。私はまだ結論がでないままです。きっと聖書の通りの出来事が起きたに違いないと思う反面、その背景が必ずあったはずだと考えています。私としては、こうだった、こう信じる、そのような結論に達していません。何が起きたのかわからない、でも何かが起きたのです。聖書をそのまま文字通り信じることができる人がうらやましいです。私はまだ答えを探しています。私は復活を信じています、でも復活がどのように起こされ、どのような意味を持つのか、それは幅広い理解の可能性があると信じています。何が起きて、どんな意味があるのかを、私はずっと問い続けたいと思いますし、それが私にとって信仰をもつということです。少なくとも復活は、十字架の死で終わらない希望があったことを指し示していると思います。死で終わらない希望、絶望の先にある希望を指し示していると理解しています。信じた人は洗礼・バプテスマを受けるのですが本当にそうでしょうか。少なくとも一生懸命勉強したら復活の意味が理解できたということにはならないでしょう。問い続けながら、何を信じるのかを問いながら歩んでゆくのが信仰です。

私たちのテーマは信仰入門ですが、あらかじめお断りしておくと、入門後にはゴールがあるわけではないのです。その門の中で考え続けるのが信仰になのです。今日は聖書からそのようなことを考えてゆきましょう。

 

 

 

ルカ24章1~12節をお読みいただきました。今日の場面は、イエスが十字架にかかり、死に、墓に納められた後の場面です。女性たちはイエスの遺体に香料を塗るために、墓に行きました。しかしそこにはイエスの遺体が無くなっていたのです。徹底的に死んだはずのイエスの遺体がなくなっていたのです。4節、女性たちは途方に暮れていました。何が起ったのかまったく理解できず、困惑し、悩んでいたのです。そこに輝く衣を着た天使が現れます。そして天使は女性たちに「十字架で死んだイエスは三日目に復活すると言っていたではないか」と言います。女性たちは繰り返しイエスに復活すると言われていても、それを覚えていなかったのです。もし女性たちが復活を信じていたのなら、遺体がなくなったのを見て、すぐに復活したのだと確信したはずでしょう。

しかしそうはなりませんでした。女性たちは復活すると繰り返し教えられていても、そんなことあるのかな?不思議だと思って聞き過ごしていたのです。良く考えないでいたのです。だから彼女たちは遺体が無いのを見て、まさか復活したとは思わなかったのです。8節で女性たちは天使に言われて、ようやくで思い出しました。そういえばイエスは復活すると言っていたと思い出しました。女性たちはどうしたでしょうか、すぐに信じたとは書いていません。とりあえず別の弟子たちにこのことを話すことにしたのです。9節、女性たちは見たことを男性の弟子たちに伝えました。しかし男性たちもまた復活を信じませんでした。たわごとだ、愚かな話、馬鹿な話だと思ったのです。復活なんてあるわけなかろうと言ったのです。

弟子たちはなんと不信仰なのでしょうか。繰り返し教えられた復活がキリスト教の信仰の中心です。しかし、復活なんてあるのだろうかと思ったのです。それが初代クリスチャンです。それがクリスチャンの本音でしょうか。イエスは復活したと何度言われてもその前に途方に暮れる、そんなことあるはずがないと思う、それこそが弟子たちの本当の姿なのでしょう。不信仰で、見習ってはいけない人たちかもしれません。しかし私はこの気持ち大事にしたい、大事にしてほしいと思います。

弟子たちは復活なんてないと思っていました。復活を疑っていました。復活を信じていなかった、それを否定していたのです。それがイースターの朝、日曜日の朝の出来事だったのです。しかし不思議にもその人たちに大きな変化が起きていくのです。その始まりが復活、イースター、日曜日の朝なのです。

おそらく私たちの信仰は信じるか、信じないかはあなた次第というような、二択ではありません。信じたいけど信じられない、そのはざまに信仰があるのです。特に復活という出来事はそうでしょう。

クリスチャンになるとは、信じたいという願いを持つことと言えるでしょう。私たちは信じて集まっていると同時に、信じられないけど信じてみたい、私たちはそのような集まりです。今日の聖書によれば、信じられないことから始まる変化がきっとあるのです。これから共に探し続けてゆきましょう。お祈りします。