種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ルカ8章5節
今日は宗教2世について考えます。バプテストは本人の自覚的な信仰を重視するグループです。宗教2世はいない「はず」です。キリスト教の宗教2世も声を上げています。「日曜日に部活に参加できないのがすごく嫌だった。欠席の理由も言えなかった」「結婚したら離婚してはならないと言われた」「恋愛や結婚は信者以外には許されていなかった」など。特に根の深い問題は、聖書の教えに従わないと幸せになれない、礼拝に出席しないと救われないといった類の言葉です。恐怖の教えは相手の心を強く縛りつけ、人を自由にするはずの宗教が人の自由を奪うのです。失敗はあなたの不信仰が原因だと教え、信じればうまくゆくと心が支配されてゆくのです。
私はそのような考えは福音ではなくもはや「呪い」だと思います。私たちは信仰を持つこととは縛られることではなく、希望につながることなのだと伝えたいのです。そのことを今日の聖書の個所から見てゆきましょう。
善い心には豊かな実りがある。神様は、立派な人には良いものを与え、悪い人には悪い物を与えるお方なのでしょうか。それならば他の宗教の神様とあまり変わらないような気がします。実は9節以降は、後の時代の人間が加えた可能性が指摘されています。4~8節まででイエス様が伝えようとしたことを想像します。
この話の主人公は「種まきをする人」です。農夫は豊かに実ることを願って種まきをしました。収穫の喜びが来ることを神様に祈りながら、信頼して種をまいたのです。しかし一生懸命な働きにも、時には失敗があります。完璧でなくていいのです。そしてどんなに頑張っても不作の時があります。それが種まきです。
私はイエス様が、すべての事がうまくいくわけではないけれども、でも実りが必ずあることを期待し、希望を持って、祈り、働きを続けよう、そう語っていると感じます。何をするにしても、それが良い結果になるかどうかわからない。でも大丈夫。神様を信頼して、実りを期待し、祈り、取り組もう、一生懸命やってみよう。安心して種をまこう。神様は一生懸命に種をまく人を、一生懸命生きている人を見捨てないはず。イエス様はそのように伝えているのではないでしょうか。
私たちの宗教、イエス様の教えは誰か否定し、縛り、自己肯定感を下げるものでもないはずです。イエス様は私たちに、恵みに期待し、祈り、日々を一生懸命生きるように教えたのです。失敗の中でもあなたが活き活きとすることができるように、あきらめずに生きるようにと教えたのです。
福音は誰かを縛るため、誰かを反省させるために、誰かを縛り付けるためにあるのではありません。福音とはあきらめそうになっていたことを、神様に信頼して、やってみようと思わせるものです。福音とは、もうだめだ、何をやっても変わらないという思いから、やってみようと思わせるものです。福音とはそのように人々を解放し、自由にするのです。その福音を伝えてゆきましょう。お祈りをいたします。