【全文】「聖書を朗読する神」ルカ4章16~21節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

今月は3回の宣教を「神学」というテーマで持っています。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。他の学問と同じように、キリスト教を深く研究し、考えてゆくことが神学です。キリスト教の神学には4つの分野があります。聖書学・組織神学・歴史神学・実践神学です。前回は組織神学の視点で宣教をしました。キリスト教の信仰を神、聖霊、キリスト、人間、教会といった分け方で見てゆく考えということを紹介しました。私たちの教会の信仰告白もこのような分け方で信仰を表しています。このように信仰を整理することで、言葉にしてゆくことで信仰がより深まってゆくことを見ました。

今日は聖書を「実践神学」という分野の視点で見たいと思います。実践神学は4つの分野の中で私たちにもっとも身近な視点でしょう。神学をどのように実践するかという分野、キリスト教の信仰をどのように実践してゆくかを考える分野です。

キリスト教には信仰の実践が必要です。頭の中に知識や理論だけがあって、悟るだけではダメです。神様の事をよく知って、私たちは具体的にどう生きるか、どうキリスト教の信仰を実践するのかが大事です。それを考えるのが実践神学という分野です。実践神学ではたとえば、キリスト者の生活はどうあるべきかを考えます。他にも教会の奉仕にどう向き合うべきか、人権や差別、平和とどのように向き合うべきかを、どのように礼拝すべきかを考えます。

中でもどのように礼拝するかを考えることは実践神学の大事な分野です。礼拝の中でどんな曲を歌い、どんなプログラムで、どんな雰囲気で持つか。それは私たちの信仰の実践に深く関わる問題です。ちなみに来週には説教の作り方講座という勉強会を持ちますが、これもまさに実践神学の問題です。説教とはそもそも何か、説教をどのように作るのかということを一緒に考えます。ぜひどなたでもご参加ください。

今日はこの個所を実践神学の視点で、特に礼拝をどのように持つかということを考えます。今日の聖書個所によればイエス様も礼拝に参加し、聖書の朗読をしています。この個所から私たちの礼拝に大切なものは聖書だということ、当たり前ですがもう一度確認をしたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

 

 

 

ルカ福音書4章16節~21節を朗読していただきました。11月の祈祷会、教会学校でも同じ個所を読みました。祈祷会の参加者の方からはこんな意見がありました。「聖書を読み上げたイエス様の声が、どのように響いたのかを想像しました。その響きが胸に刺さるような気がします」。また別の方は「イエス様の聖書朗読を聞いてみたかった。聖書はどう朗読したらよいのでしょうか?すらすら読むよりかは、かみしめながら読みたいと思います。同じ個所でも数か月後に読むと感じ方が違うものです。み言葉はその時その時必要なものを与えてくれると思います」そのような意見を聞くと、私もどのように聖書朗読がされたのか想像をしたくなりました。

私たちの教会でも聖書朗読を司会者だけではなく、一部分を順番で担ってもらうことにしました。聖書朗読が順番としていることはとてもよい雰囲気だと感じています。まず礼拝にいろいろな人が代わる代わる登場するのが面白いです。いろいろな人が登場すると、礼拝が一方通行に聞く、出席するだけではなく、みんなで礼拝をしている感覚があります。礼拝は座って一方的に聞く集まりではないということを思い出させてくれます。そうです、礼拝は立ったり座ったり、挨拶したり、いろいろな人が来る場所だと気づかせてくれます。

朗読する人、一人一人の個性と多様さも伝わってくる気がしています。聖書を朗読する人は、それぞれのテンポやそれぞれの想像力で、聖書を朗読してくださいます。それは私の感覚とは違っていて、聖書を新鮮にいただくことができます。時々、なぜか聞いているだけで心が打たれるような気もします。聖書をかみしめながら礼拝できている気持ちがしています。このような聖書朗読の持ち回りが続いてゆくとうれしいと思っています。聖書朗読をかみしめながら聞いていると、イエス様はどんな風にこの言葉を語ったのだろうと想像力が湧いてきます。

聖書にはイエス様が礼拝に出席し、聖書の朗読をしたとあります。イエス様の読んだ聖書はイザヤ書61章ですが、2000年前の人たちと、私たちとでは状況は大きく違います。まず2000年前の人は一人一冊聖書を持っていたわけではありません。それができるようになったのは2000年の歴史からいうとごく最近です。活版印刷が発明された後、ここ500年くらいの事です。イエス様の時代の聖書は羊の皮に手で文字を書いた巻物でした。他の巻物を手書きで写し、また別の巻物に手書きで書くという、写経のように聖書は伝えられてゆきました。今日読んだイザヤ書だけで1つの巻物になっていました。旧約聖書を全部集めたら39本の巻物でした。巻物は大変高価なもの、貴重な物でした。聖書は人々が自由に触れ、自由に読めるものではありませんでした。町の会堂に大切にしまってある貴重品だったのです。

聖書が手元にないということは、人々はどのように聖書の言葉に接したのでしょうか。人々は礼拝において朗読される聖書のみ言葉を聞くこと以外には、聖書のみ言葉に接する機会が非常に少なかったのです。礼拝は聖書のみ言葉が聞ける貴重な機会だったのです。聖書は一人一人の手元にある、便利なものではありませんでした。だから人々は、暗唱したのです。こどもたちに繰り返し暗唱する様に教えたのです。聖句の暗唱のルーツはそこにもあります。

聖書に触れる機会がとても貴重だったということから考えると、礼拝の中で聖書の朗読がされることが、いかに重要であったかがわかります。聖書朗読はそこでしか聞けない話であり、読み返すことができず、聞き逃すことができなかったのです。20節には「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあります。聖書朗読が貴重だったから、すべての人が心も体も集中して聖書の朗読を聞いたのです。まさしく聖書の朗読が礼拝の中心だったのです。

当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕はとても大切なものとされました。その日に礼拝に来たお客さんや、町の有力者が聖書朗読をしたと言われています。聖書朗読の奉仕は礼拝の中で最も名誉ある奉仕とされました。聖書・聖書朗読が礼拝の中心だったからです。私たちの礼拝の聖書朗読が順番となったというのは、このあたりからルーツがあると思います。新しいようで、伝統的な方法です。イエス様の時代の礼拝も、私たちの礼拝も、大切にしているのは聖書のみ言葉です。礼拝の中でもっとも重要なのはみ言葉です。

聖書の言葉はむずかしいかもしれません。まったく意味がわからないかもしれません。でも聖書の言葉、そのものが何より大事です。聖書とその朗読が、礼拝の中で一番大事なプログラムです。それが私たちの礼拝の中心です。礼拝で一番長く時間を取るのはこの宣教の時間です。聖書には一人で読んでもわからない部分がたくさんあります。解説や解釈が必要な時があり、イエス様もこの後、説明をしました。そんな時、私たちは礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかしそうではありません。礼拝の中で一番大事なのはみ言葉、聖書朗読の時です。

礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。礼拝は聖書講演会、聖書勉強会ではありません。どちらかといえば礼拝は聖書を聞く会、聖書を読む会なのです。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わかっても、わからなくても、寝ていても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉が中心にある限り、それが礼拝なのです。もし礼拝から聖書の言葉を無くしてしまうとどうでしょうか。どんなに歌って、どんなにいい話がされても、それは礼拝ではありません。

聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。もちろん聖書を、意味の分からない呪文にしてはいけません。でも一番大事なことは、聖書のみことばそのものです。そのことを心にとめながら礼拝したいのです。わかってもわからなくても、聖書の言葉を一人一人がかみしめ、想像する、そのような礼拝をしてゆきたいのです。聖書の朗読の奉仕は、そのことを気づかせてくれる、促してくれる働きなのではないでしょうか。

今日はイエス様が聖書を朗読した場面を読んでいただきました。巻物を渡されたイエス様はどのように聖書の朗読をされたのでしょうか。そしてなぜこの個所を選んだのでしょうか。どのような意味でこの言葉を語ったのでしょうか。わからなくてもいいのです。でもそれをしっかりと受け止めてゆきたいのです。なにより聖書の言葉を大事にしてゆきたいのです。

今日は実践神学の視点で聖書を見ました。礼拝の聖書朗読はもっとも大切な奉仕で、礼拝の中心です。イエス様もされた大切な奉仕です。これを分かち合う喜びは大きなものです。これからも私たちは聖書のことばを礼拝の中心にしましょう。聖書の言葉を私たちの生活の中心にしましょう。礼拝でのみ言葉から力をいただき、そのみ言葉を生活で実践して行く者となりましょう。お祈りいたします。