【全文】「ひと皮むく神」ルカ3章15~18節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音と共に礼拝をしましょう。今日は礼拝の中で、成人祝福祈祷を行う予定です。実は昨年から法律が変わり、「成人」の年齢は20歳から18歳に変わりました。平塚市の成人式も「はたちのつどい」と名前が変わったそうです。法律上は18歳ですでに「成人」ですが、とりあえず今年の教会は成人祝福祈祷とします。来年は「はたち祝福祈祷」でしょうか? 

これは神様に若者たちがここまで成長してきたことを感謝する祈りです。そして若者のこれからの人生に神様の守りがあるように祈ります。互いの感謝と守りはいつも祈っていることですが、20歳という人生の大きな節目を迎える時を、改めて神様に祈りたいと思います。クリスマスはこどもたちや赤ちゃん、それを囲むママたちの物語を読みました。元旦の主日礼拝は高齢者を覚えました。今日は若者を覚えます。神様はあらゆる年齢の者、すべての人を祝福しています。神様からの祝福とはつまり神様が「いいね」と言ってくれているということです。

成人を迎えたからには、ぜひ自覚と責任をもって生きて欲しいと上から言いたいところですが、実は当の私が成人としての自覚が足りていません。私たちもまだまだこどものようなものです。こどものようなわがままを言ったり、こどものような失敗をしたり、こどものような言い訳をしたりします。年を重ねるごとにわがままになっていったりするものです。18歳、20歳に関わらず、すべての大人たちが、もう一度自分が成人であることを自覚しなければいけないでしょう。

神様はこどもも、親も、高齢者も、若者も、すべての命を喜んでくださるお方です。それぞれの世代に良さと不足があります。私たちはその互いの命を祈り合いたいと思います。互いの命を祈りあいましょう。私は高齢者のように祈りたいし、若者のように祈りたいのです。そして自分のわがままに生きるのではなく、自分のためにだけに生きるのではなく、他者のために生きたい、そう思うのです。

今日も聖書を読みますが、このことを見てゆきましょう。神様はすべての命を喜んでくださるお方です。「いいね」と言ってくださるお方です。そして、自分のためだけではなく、他者のために生きるように、他者を下支えする様な人になるように、そう聖書は語っているということを見てゆきましょう。聖書を読みましょう。

 

今日はルカ福音書3章15節~22節をお読みしました。イエス様はよく神様の特徴を説明するのに、農作業を例に挙げました。聞いていた人々のほとんどが農民でしたから、神様の特徴を農作業に例えると、とてもよく理解できたのです。今日のヨハネも、他の個所と同じように神様の特徴を農作業にたとえています。今日はもみ殻を取る作業です。

おそらく当時の人々が食べたのは大麦か小麦でしょう。麦は収穫されると、まずよく乾燥させます。そして叩いて穂先の粒だけを取り、殻を割ります。打穀です。そしてさらに実の周りについているもみ殻を取ります。それを箕(み)というカゴに移し、空に舞い上げました。舞い上げたところに風が吹くと、もみ殻やごみが吹き飛ばされたのです。もみ殻やごみだけが、宙を舞い地面に落ちたのです。そうやってようやく食べられる部分が出てきます。さらに実際は食べる前には、それを臼でひいて、粉にして、こねて、焼いて、パンにしました。気が遠くなります。もみ殻は乾燥しているので、とても良く燃えるそうです。一度火がつくとなかなか火は消えません。でもきっと昔はなんでも無駄にしなかったでしょう。燃やしたもみ殻はよい肥料になるそうです。

17節には、神様はもみ殻を吹き飛ばし、燃やし尽くすお方だとあります。このもみ殻とは何を指しているのでしょうか。ここには神様の選びが書かれていると言われます。神様は麦の実ともみ殻を分け、もみ殻を永遠に消えない炎に投げ入れる方です。これは神様がキリスト教を信仰する人としない人をふるい分けるということでしょうか。神様は信じない人をもみ殻のように吹き飛ばし、地獄の消えない火へ投げ込むというのでしょうか。教会に通う人と、教会に通わない人をふるい分け、教会に通わない人を地獄に追いやるのでしょうか。バプテスマを受けた人と受けてない人をふるい分け、バプテスマを受けていない人に天罰を与え、地獄に落とすのでしょうか。もし聖書に書いてある神がそのような神であるなら、私は絶対信じたくありません。そんな神様は嫌です。そんな罰を与えるだけの神様なら信じたくありません。

実はヨハネも厳しい神様の姿を想像していたかもしれません。ヨハネも自分の思う神様の特徴を農業の風景でたとえています。9節には「良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる」とあります。ここで切り倒されるのは実ができない木ではなく、よい実をつけないです。実を1個食べてまずいだと思ったら、根っこから切り倒してしまう神様です。これは相当厳しい神様のイメージです。

でもヨハネは同時に言っています。16節、私より優れた方がやって来ると。私よりも優れた、イエス・キリストがあなたたちに訪れると言っています。それはまるでもっと優しい神様が来ると言っているように聞こえます。神様は私たちの一部分がダメだからといって、すべてを燃える炎に、地獄に投げ込まれるような厳しい方ではありません。麦ともみ殻の話をどう理解したらよいでしょうか。私はこうも理解できると思います。

私たち一人一人は麦の穂です。もみ殻とは私たちの一部分です。でももみ殻は本当の私たちには必要のない部分です。それは私たちの欠点とも言えるでしょうか。私たちの罪、私たちの欠け、私たちの良くないところ、それがもみ殻です。神様は私たちにとって、必要なものと、必要ないものをふるい分けて下さるお方です。そして神様は私たちの良い部分だけを残してくださるお方なのです。私たちはみんな余計な部分があります。不必要な部分があります。悪いところがあります。神様はそれを良い部分だけにするために、ふるい取り分けて下さるお方なのです。私たちのもみ殻は風に吹かれると、吹き飛ばされて無くなってゆきます。聖霊という言葉も出てきますが、聖霊は風とも読み替えることができる言葉です。聖霊、すなわち風が私たちの間に吹いて、私たちのもみ殻を吹き飛ばしてくれるのです。神様は私たちを揺さぶり、舞い上げ、風・聖霊が私たちの不必要な部分を吹き飛ばしてくれるのです。そして私体の良い部分だけが残るのです。それが今日のたとえです。

神様はこのようにして、私たちを一皮むいてくださるお方です。むけた部分はどうなるのでしょうか。私たちのむけた部分は、永遠の炎で焼き尽くされます。神様は私たちを一皮むき、悪い部分、罪、欠点を取り払い、そしてすべて焼き尽くしてくださるお方です。

神様はそのようにして私たちをみこころにかなう者としてくださいます。私たちはこの麦の穂のように、揺らされ、ぶつかりあい、風に吹かれ、一皮むけてゆきます。不必要な部分が取り除かれてゆきます。教会とは脱穀場のような場所でしょうか。教会は脱穀場の様に一皮むけようとする人の集まりです。

私たちだけが正しい、教会以外は、クリスチャン以外は救われないと思う人もいるでしょうか。それはまだ一皮むけていない考えかもしれません。そんな思いは神様に揺さぶられ、聖霊と風に吹かれ、吹き飛んで燃やされて、無くなればいいと私個人は思います。神様はきっと、一粒残らずすべての命を、大切に思い、守ってくださるお方です。

16節でヨハネは、私はイエス様の履物の紐をほどく値打ちもない者だと言っています。履物の紐をほどくとは、当時の奴隷の仕事で、奴隷でも嫌がる仕事だったそうです。それをする価値すらも自分にはないということは、私など神様の前に価値がないと思っていたのでしょう。自分は必ず罰が当たる存在だと思っていたのです。しかしイエス様はどうだったでしょう。イエス様は他の聖書の個所によれば、弟子たちの足を洗ったお方です。イエス様は弟子の履物の紐をほどき、さらに足を洗ったお方でした。イエス様はこのように、人の下に立とうとしたお方です。へりくだったお方、低い場所から物事をみたお方、謙虚であったお方です。決して上から裁いて地獄に落とす方ではありません。

私はそんなイエス様、良い人だと思います。この姿こそ成人の姿だと思います。成人とは年齢によって自動的に迎えるものではないでしょう。成人とは神様の風に吹かれて、もみ殻が焼き払われた人です。そしてもみ殻が吹き飛ばされて、一皮むけた人は、きっとイエス様のように生きるようになります。他者のために働くようになるのです。他者の上に立ち、裁き、滅ぼすのでありません。本当に神様の風に吹かれた者は、他者を下支えする者となるのです。それは他者の靴を脱ぐ、履くの手伝いができる人です。これがイエス様の姿です。

私たちはこの後、成人祝福祈祷の時を持ちます。神様にこれまでの命に感謝し、これからの命の守りを祈ります。一人一人のもみ殻が吹き飛ばされ、燃やされ、実だけが残るように、豊かな人生が歩めるように祈ります。そして他者の履物の紐をほどくような、仕える者、他者を下支えするような者になって欲しいと願います。

私たちはそのような者、そのような大人になりたい一人一人です。私たちも神様の風に吹かれ続けてゆきましょう。そして他者に仕える者、他者を下支えする者になってゆきましょう。今日私たちは、お互いに神様の風が豊かに吹くように祈りましょう。お祈りします。