「すべての命がふさわしい」 ルカ1章26~38節

天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

ルカによる福音書1章30~31節

 

私たちの教会ではシェルターを運営しています。先日は女性が妊娠している夫婦が利用しました。私は聖書の物語を思い出します。マリアも妊娠中に今日寝る場所を夫ヨセフと探していたのです。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの命のために、シェルター利用を受け付けました。大人たちには自分の人生に責任があります。しかしこどもに一切の非はありません。こどもが両親の事情によって、健康に生まれてくることができなかったりしてはいけません。

生まれてくるのにふさわしくない命はありません。すべての命が神様にとってふさわしいのです。そしてむしろ、私たちがふさわしくないと思うような場所に、人に神様が来て下さるのです。今日は聖書から命について考えたいと思います。

聖書によれば、イエス様が生まれたのは男女の性交によるものではなく、奇跡による受胎だったとあります。現代において、初めてこの話を聞いた人のなかでどれほどの人がこの話を「そのまま」信じることができるでしょうか。神の子なのだから、普通の人と違った妊娠方法であるということは当然でしょうか。

キリストにふさわしい妊娠や育ちとはなんでしょうか。どのような生まれ方がキリストにふさわしかったのでしょうか。もしかするともっと選ばれた親や選ばれた環境、選ばれたタイミングがあったはずです。例えば神の子は大祭司のこどもとして生まれることもできたはずです。人類の救い主なら、貧しい家のこどもよりも、王様のこどもの方がふさわしいのではないでしょうか。しかしイエス様の出生の不思議は、ふさわしくないと思える場所に起こります。その妊娠は、結婚前の律法違反の妊娠で、貧しい親の妊娠で、出産場所に困る妊娠でした。

マリアも「なぜ私に?」と思ったはずです。私よりもっとふさわしい人がいっぱいいるはずなのに、なぜ私が。今よりもっとふさわしいタイミングがあるはずなのに、なぜ今、神の子を妊娠するのかと思ったはずです。

しかし、マリアに神の子は宿りました。もっとふさわしい人がいる、わたしなどふさわしくない、そんな思いを持つマリアに、神の子の命は宿ったのです。わたしなどふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。

神様はこのようなお方です。神の子はふさわしくない私たちの間に生まれてくるお方なのです。神の子は私たちのどんな不足や不信仰も超えてやって来るお方です。私なんかふさわしくないと思う、そこに神様の出来事が起こるのです。それがクリスマスです。私たちは私たちの思うふさわしさを超えてゆきましょう。神様はすべての命をふさわしい命として下さっています。ひとりひとりの命が神にふさわしい命として大切にされる教会になりましょう。お祈りをいたします。