一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
マルコ14章22節
今月の宣教のテーマは世界・環境としました。世界に向けて開放された、聖書の読み方をしたいと思っています。今日10月の第1日曜日は「世界聖餐日」と呼ばれる日です。教派や教会を超えて、世界で同時に主の晩餐を行い、イエス様を中心とする仲間であると証する日です。世界に目を向けるとロシアとウクライナの問題、途上国の物価上昇など様々な問題が起きています。私たちはこの世界を見つめながら礼拝し、連帯性、同時性を意識して主の晩餐をもちましょう。
12節には主の晩餐は神様に招かれ、不思議と準備されているもだと書いてあります。イエス様が目印とした人は性別役割分担を超えて働く、水がめを運ぶ男でした。神様が準備される場所には、必ずこのような人が起こされます。
今日見たいのは、この主の晩餐は「ふさわしい者」だけが集い、食事をしたのではないということです。この食事にはこの後イエス様を裏切るユダも招かれたのです。
イエス様は18節で弟子たちの裏切りを予告します。弟子たちは19節「まさか、私のことでは」と思ったのです。弟子と言っても、それほどの信仰しか持たない者の集まりでした。そしてメンバーの中には本当に間違ったことをする人がいました。
イエス様はなぜ、このような食事会を持ったのでしょうか。それは仲間たちがどんなにバラバラになってもイエス様を中心とする仲間であることを忘れないためでした。間違いを犯す人、そういう危険のある人も含めて、共にイエス様を中心とする仲間だと確認するためです。それは私たちの主の晩餐も、同じです。私たちの間に違いがっても、中心にイエス様がいることを忘れないために行われます。
私たちは今日、特に世界の仲間たちと一緒に主の晩餐を持ちます。同じキリスト教の中でも、それはキリストの教えと違う、間違っていると思える仲間が世界にいます。しかし今日の個所によればイエス様は、バラバラの私たちを、バラバラになる私たちを同じ食事に招くお方です。この主の晩餐を、イエス様を中心として生きる世界の仲間が、正しく導かれるように祈りつつ、持ちたいたいのです。そしてもうこれ以上、誰にもイエス様を裏切って欲しくないのです。そしてきっと私こそイエス様を裏切ってしまうユダです。しかし、それでも神様はこの食事に招いておられます。なんという恵みでしょうか。それが神様の愛です。私は招かれたからこそ、愛されるからこそ、イエス様を裏切りたくないと思うのです。
私たちはその愛を忘れてしまわないように、この主の晩餐を繰り返しましょう。そしてもし裏切ってしまっても、また主の元に集いましょう。食事へと招いてくださるのが神様の愛です。この後、世界と共に、主の晩餐を持ちます。神様は私たちに平和への一致を求めておられます。平和への一致への道は必ず用意されています。世界の平和と一致がこの主の晩餐から始まるように願います。お祈りします。