「大胆に話せるように、祈ってください」 エフェソ6章19~20節

本日はお休みをいただき、宣教の奉仕を担っていただきます。このような休暇をいただけることを感謝します。

神学校では宣教1回の準備には20時間かかると教わりました。宣教の準備では聖書のみ言葉を読み、黙想し、先人たちの解釈を調べ、辞書を引き、会衆を想像し、言葉を紡いでゆきます。最近私は15時間程度で準備ができるようになったでしょうか。それでもまだ20時間かかる週もあります。このような綱渡りを毎週繰り返し、穴をあけること無く、講壇に立つことができていることに驚いています。

神学校では宣教の後は必ず落ち込むものだとも教わります。限られた時間で準備しなければなりませんし、人間が語ることには必ず欠けと不足があるからです。終わった後は達成感よりも後悔が押し寄せるのが普通です。むしろ過度な達成感はみ言葉の前の謙虚さという点で危険とも言えるでしょう。振り返れば必ず反省点があるのです。このような役割を続けてゆくには祈りと支えと励まし、そして「休暇」が必要です。いつも必要な祈りと支えと励ましといただき、休暇をいただけたことに改めて感謝します。

宣教の働きについてよく「大胆に語ることができるように」と祈ってくださいます。宣教者は祈りによって支えられなければ、この働きを続けてゆくことができません。祈りが必要です。語るにあたって、大胆ならよいわけではありません。力強ければよいわけではありません。宣教には大胆さと同時に繊細さ・適切さが必要です。しかし大胆さの中に繊細さ・適切さを含む宣教を語るのはとても難しいことです。それは鎖に縛られながら、早く走ろうとするようなものです。

今日のみ言葉はまるで宣教者に向けられた祈りのようです。今日立たされた福音の使者、宣教者のために祈りましょう。限られた時間と、言葉、さまざまな鎖の中で語っています。語ったあと後悔することもあるでしょう。そのような宣教者が大胆かつ繊細に語ることができるように励まし、心から祈りましょう。

そしてこの個所は宣教者から会衆への祈りのリクエストでもあるでしょう。宣教者は孤独で、一人で悩みます。だからこそ宣教は会衆からの祈りと支えと励ましによって語ることができるようになるのです。私も今日宣教者のために祈っています。

そして私からもリクエストします。どうぞ今日の宣教者のために祈ってください。毎週の牧師の宣教のために祈ってください。大胆で繊細で適切な宣教のために祈ってください。良い礼拝となるように祈っています。    (牧師 平野健治)