イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 マルコ10章49節
平和をテーマに1ヶ月間宣教をしてきました。先週は平和とは、あきらめず叫び声をあげてゆくことだと聖書から見てゆきました。今日聖書はそれと反対のことかもしれません。私たちは平和を願う小さな声に耳を傾けたいのです。平和とは少数者や小さな声が大切にされることです。大きな声、社会全体の雰囲気に流されないようにしたいのです。今日は立ち止まり、声を聞くイエス様を見てゆきましょう。
バルティマイという視覚障がいを持っている人が登場します。彼は道端にしか自分の居場所を見つけることができない、社会からはじき出された人でした。彼はイエス様に一番初めにして欲しい行動を叫びました。それは驚くことに「憐れんでください」ということでした。「憐れむ」という言葉には同情する、慈しむという意味があります。私がもし憐れむという言葉を自分の言葉にするなら「自分の気持ちを分かってもらう」ということです。「憐れんでください」という叫びは、「私の気持ちを分かってください」そんな叫び声だったのです。しかしなんと周囲の人々は黙らせようとしたとあります。周囲の人々とは社会と言い換えることができます。彼は、社会から無視され、黙らされたのです。でも彼はもっと大きな声で叫びます。
イエス様は誰も足を止めなかった場所で足を止めるお方です。そして道端、社会の隅から彼を神の前に呼び出すのです。これは今までの群衆の反応、社会の反応とは全く正反対の行動です。イエス様だけが、彼に足を止めたお方です。イエス様だけが彼を呼び出したお方です。イエス様だけが、その話を聞こうとしたお方でした。
この物語からイエス様の生き方を学びます。そして私たちが今日の個所から知る希望は、神様は苦しみに足を止めて、聞き、わかって下さるお方だということです。そして神様は私たちの目を開き、新しい人生に送りだして下さるお方だということです。神様は私たちの声に立ち止まり、聞いてくださるお方です。
私たちがこの福音を生きてゆくとはどんなことでしょうか?それは多くの仲間が持つ、社会の中にある叫びに立ち止まって、聞くこと、聞き取ってゆくではないでしょうか?私たちは平和を願う小さな声に、立ち止まって、聞いてゆきましょう。その声は特に沖縄から聞こえてくると思います。
沖縄の基地を抱える痛みが黙らせられ、かき消され、本土の私たちに聞こえないようにされているでしょう。私たちはその声にしっかりと足を止めて、聞いてゆきたいのです。沖縄から聞こえる平和を願う声、小さな声を聞いてゆきたいのです。様々な場所からの平和への思い、その声を聞いてゆきたいのです。
今日私たちは平和祈念礼拝を持っています。共に平和を祈ってゆきましょう。大きな声ではなく、平和を求める小さな声に立ちどまり、聞いてゆきましょう。イエス様がそのよう歩んだお方です。イエス様は立ち止まり、声を聞いてくださるお方です。この方に従いましょう。お祈りします。