みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に声を聞きながら礼拝をしましょう。先月と今月は「こひつじ食堂」から聞こえる福音について考えています。「こひつじ食堂」は1人200円で誰でも利用できる食堂です。200円でお腹一杯になることができます。
地域の方と食事を一緒にしていると本当に楽しいです。こどもには「おじさん何歳ですか?」と聞かれ「何歳に見える?」と話しながら食べています。ありふれた会話でも、話しながら食べるのは、とても楽しいものです。誰でもお腹一杯になると、自然と笑顔になるものです。
一方で、誰でもお腹がすくとイライラするものです。我が家で起こるいざこざもたいていお腹が空いている時に起ります。教会でも、お腹の空いている時に、集まって何かを議論したりしない方がよいでしょう。昼食前の会議はうまくいきません。仕事でも同じでしょうか。物事や人間関係がうまくいかない理由のひとつに「空腹だった」ということはあるでしょう。
広島県では40年以上、自宅で地域のこどもに食事を出し続けているおばあちゃんがいます。おばあちゃんはいわゆる非行少年を自宅に招き、無償で食事を提供し続けています。そのおばあちゃんは言います。「お腹がいっぱいになれば悪いことはしない」。戦争も同じです。貧困こそ戦争の大きな原因の一つです。アフガニスタンで働いた中村哲さんは言います。「飢えている者に必要なのは弾丸ではない。温かい食べ物と、温かい慰めだ」。
お腹が空いているということは、家庭でも、教会でも、社会でも、世界でもいろいろな衝突と紛争の原因となるものです。みなさんにも経験があるでしょう。満腹の時に赦せたことが、空腹の時は赦せなくなるのです。そう考えると、私たちが一緒にお腹一杯になる「こひつじ食堂」は、とても大事な活動ではないでしょうか。いっしょにお腹いっぱいになることは互いに愛し合うことにつながるでしょう。いっしょにお腹いっぱいになることは家庭、地域、社会の平和にもつながる活動でしょう。
自分の愛の無さ、罪深さを恥じることも大事です。しかしお腹一杯にしてから始めることも大事です。私たちの「こひつじ食堂」は小さいけれども、この地域でイライラをなくし、いざこざをなくし、愛と平和に向かって働いていると言えるでしょう。私たちはお腹がすいたままでは、なかなか他者を愛せないのです。お腹いっぱいになることは愛と、平和の始まりなのです。
今日は聖書から、お腹一杯になることの大事さをみます。このような聖書の読み方は「こひつじ食堂」があるからこそ想像できる読み方です。そして今日は教会の暦ではペンテコステです。聖霊、特にここでは赦しというテーマも見てゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。
教会の暦では今日はペンテコステです。ペンテコステとはイエス様が復活して50日後に弟子たちに聖霊が下り、力を与えたという出来事を覚える時です。ペンテコステは50日後という意味です。聖霊とは何かということを詳しく話すことは省略します。ただ羽の生えた妖精ではありません。簡単にいうと、神様との関係を感じさせるものです。
聖書を読むと、今日のイエス様はかなり厳しい言葉をかけています。特に「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」というのは、死後も永遠に罰を受け続けるといったような厳しい印象も受けます。どう受け止めたらよいでしょうか。
まず28節「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」とある箇所から読みましょう。そうです、神様はすべてを赦してくださるお方です。神様は私たちがどんなに悪いことをしても赦してくださるお方です。神様はどんな失敗も、連続殺人も銀行強盗も、どんな失敗も赦して下さるお方です。もちろん神様の赦しとは、神様が罪を水に流し、帳消しにし、無かったことにする、しょうがなかったねといってくれることではありません。神様の赦しとは、何回罪を犯しても、新しく生きるようにさせてくれるということです。もうするな。そして方向転換して、生きよと神様が呼びかける、それが神様の赦しです。このように神様はどんな罪も赦すお方です。
しかしこの赦しには、一つだけ条件が付いています。それは29節「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦され」ないということです。聖霊とは神様との関係を感じさせるものです。その聖霊を冒涜するとは、神様との関係を否定するということです。私は神様とは一切関係ありませんと言う人の罪は、赦されないということです。赦しの条件は一つです。神様の前で自分が悪かった、そう認めることです。逆に神様の前で自分が悪くないと思っている人、自分に罪はないと思っている人は永遠に赦されません。その人にとっては赦される必要がないとも言えるでしょう。神様は、私が悪かった、もう二度としないと思う時、どんな罪でも赦してくださるお方です。そして、もうするな、新しく生きろと呼びかけて下さいます。
29節「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし聖霊を冒瀆する者は永遠に赦され」ないという意味は、神様は私たちが告白する罪をすべて赦してくださることを示します。新しく生きよと言ってくれることを示します。そして神様の前で私に罪はないと言う時、その罪は赦されないということを示します。
私たちもお互いを赦し合いましょうとは言いません。ここでは神様との関係が語られていて、人間同士の赦しは語られていません。教会はこれまで他者への赦しを強制しすぎてきました。何をされても「クリスチャンだから相手を赦しなさい」と強制してきました。それはかえって人を傷つけてきました。私が相手を赦すかどうかは私が決める問題です。相手が私を赦すかどうかは相手が決める問題です。でも神様は神様の前で罪を認める時、どんなことでも赦してくださいます。神は新しく生きろと言ってくださいます。人間が人間をすぐに赦す必要はありません。赦したいと思えた時に赦せばよいのです。謝罪と償いを受けてから赦せばよいのです。気が向かなければ、一生赦さなくてもよいのです。逆に、一生赦されないこともあるでしょう。ただ神様は赦すということだけが真実です。神様は失敗をした人に神様の前でそれを認め、新しく生きるようにと言っているのです。
22節にはエルサレムから律法学者が下って来て、イエス様を批判したとあります。彼らはエルサレムから下ってきました。エリート学者が上から下に下ってきたのです。彼らは病人には興味も示さず、目立っている人間を批判するためにだけに、上から下に下ってきました。彼らはまだ自分たちの罪に気づいていません。病気の人、お腹の空いている人を無視した罪にまったく気づいていません。むしろ寄り添い、癒しを行うイエス様を罪だ、悪魔だと大騒ぎするのです。神様はこの学者たちを、自分の罪を認めるまで永遠に赦さないでしょう。イエス様は今日そのことを28節・29節で宣言しています。
それにしても、イエス様はかなりイライラしている様子です。よく読むと20節には「一同は食事をする暇もないほどであった」とあります。忙しくて食事をとっていない時の出来事だったのです。あえて食事をとる暇もないほどだったと聖書に書いてあるのも驚きです。きっとイエス様もお腹が空いていて、イライラしていたでしょう。いつもより厳しい言葉をかけています。
イエス様はいろいろな人と食事をしました。そしてその中で一人一人が神様との関係に気づいたのです。イエス様と共に食事をすることで、自分の罪に気づいたのです。お腹が満たされたとき、自分の罪を認めることができたのです。今日の場面ではそのような食事はありません。律法学者は批判し、空腹なイエス様たちは、それに強く反発をしています。だれも新しい人生を歩みだしていません。
やはり今日の場面を見て、私はいっしょにお腹一杯になることの大事さを思います。その時、自分の罪を認めることができるのです。非を知ることができるのです。新しい関係が生まれるのです。お腹が満たされて、わからなかったことがわかるようになるのです。他者を赦せるようになるのはお腹が満たされた時なのです。今日残念なのは、共なる食事がないまま、争いが続くことです。
今日私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。パンは小さくて決してお腹一杯にはなりませんが、記念として、象徴としてこのパンを食べます。このパンを食べて、イエス様が人々と一緒に食事をした様子を思い出します。そこには平和と愛があふれたでしょう。そして、一緒に食べると自分の罪に気づいたでしょう。神様に赦されていることにも気づくでしょう。そして相手を赦す気持ちに少し近づくかもしれません。
私たちはこの主の晩餐によって、共に満たされることを確認します。この主の晩餐から愛と平和が生まれてきます。まるで食堂で笑顔があふれるように、私たちはこの主の晩餐をいただきましょう。
神様は私たちを赦してくださるお方です。条件はひとつ、聖霊を認めること、神様との関係を認めることです。神様の前にそれが悪い事だったと認めることです。そうすればすべての罪は赦されます。新しく生き直す力をいただけます。お腹を満たし、神様との関係の中に生きましょう。神様は私たちのお腹も心も満たしてくださるお方です。お祈りします。