イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
マルコによる福音書3章20節
「こひつじ食堂」から福音を考えています。地域の方との食事は本当に楽しいです。誰でもお腹一杯になると、自然と笑顔になります。一方、誰でもお腹がすくとイライラします。非行少年に関わるおばあちゃんは「お腹がいっぱいになれば悪いことはしない」と、アフガニスタンの中村哲さんは「飢えている者に必要なのは弾丸ではない。温かい食べ物と、温かい慰めだ」と言います。空腹は家庭でも、教会でも、社会でも、世界でも衝突と紛争の原因となります。だからこそ私たちが一緒にお腹一杯になる「こひつじ食堂」は家庭、地域、社会の愛と平和の始まりなのです。今日は聖書から、お腹一杯になることの大事さをみます。そして今日は教会の暦ではペンテコステです。聖霊、特に赦しというテーマも見ます。聖書を読みましょう。
神様はどんな失敗も赦して下さるお方です。もちろん神様の赦しとは、神様が罪を無かったことにすることではありません。神様の赦しとは、何回罪を犯しても、新しく生きるようにさせてくれるということです。もうするな。そして方向転換して、生きよと神様が呼びかける、それが神様の赦しです。しかしこの赦しには、一つだけ条件があります。神様の前で自分が悪かった、そう認めることです。自分に罪はないと思っている人は永遠に赦されません。
またここでは、人間同士の赦しは語られていません。私が相手を赦すかどうかは私が決める問題です。赦したいと思えた時に赦せばよいのです。気が向かなければ、一生赦さなくてもよいのです。ただ神様は赦すということだけが真実です。
それにしてもイエス様は、忙しくて食事ができずお腹が空いていてイライラしています。普段イエス様はいろいろな人と食事をしました。そしてその食事の中で一人一人が神様との関係に、自分の罪に気づいたのです。今日の場面を見て、私は一緒にお腹一杯になることの大事さを思います。その時、新しい関係が生まれるのです。今日残念なのは、共なる食事がないまま、争いが続くことです。
今日私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。パンは小さくて決してお腹一杯にはなりませんが、記念として、象徴としてこのパンを食べます。このパンを食べて、イエス様が人々と一緒に食事をした様子を思い出します。そこには平和と愛があふれたでしょう。そして、一緒に食べると自分の罪に気づいたでしょう。神様に赦されていることにも気づくでしょう。相手を赦す気持ちに少し近づくかもしれません。
私たちはこの主の晩餐によって、共に満たされることを確認します。この主の晩餐から、愛と平和が生まれてきます。まるで食堂で笑顔があふれるように、私たちはこの主の晩餐をいただきましょう。神様は私たちを赦してくださるお方です。お腹を満たし、神様との関係の中に生きましょう。神様は私たちのお腹も心も満たしてくださるお方です。お祈りします。