すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。ルカ9章16~17節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。私たちは毎年「主題聖句」という1年間大切にする聖書の言葉を決めています。週報の表紙に掲載し、毎週の祈祷会で読み合わせています。昨年度までの3年間はルカ9章48節でした。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」この聖句から、私たちはこどもを大切にする教会ということを追いかけてきました。
今年はルカ9章16節・17節としました。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」
もちろんこれからもこどもを大切にしつつ、この聖句から今取り組んでいる「こひつじ食堂」を大切にしてゆきたいと思っています。「こひつじ食堂」とは毎月第三・第四金曜日、17時~19時まで、この教会を会場にして行われている食堂です。一人200円で、だれでも利用することができます。貧しい人だけが来る場所ではなく、誰でも、寂しいと思う人、誰かと会いたいと思う人、節約したい人、誰かの役に立ちたい人、すべての人に食べて、満腹になってほしいと思っています。こひつじ食堂の様子から、大勢で食事をする聖書の場面を主題聖句としました。
市内には他にもこども食堂があり、似たことをしています。その人たちにやり方を教わって始めました。しかし私たちにはきっと別のルーツがあります。そのルーツというのは聖書です。聖書の中に記される、イエス様がいろいろな人といろいろな場所で食事をしたことが「こひつじ食堂」のルーツです。聖書には食事がきっかけで、イエス様のことを知ることができたり、仲間ができたりする場面がたくさんあります。だからこそ、私たちは一緒に食事をすることを大切にするのです。
さらにこひつじ食堂は教会のメンバーだけではなく、地域の人と一緒に食事をする場所になりました。分かち合いをする場所になりました。一緒に働く場所になりました。
このことをきっかけに私たちは今、地域協働計画を進めています。今、私たちはもっと地域と一緒に食事をし、一緒に活動してゆく教会を目指しています。そしてそのような願いを持って聖書を読む時、きっと新しくみ言葉をいただくことができると思います。私は最近、聖書を読んでいるとどうも、読む個所、読む個所にこひつじ食堂のことが書いてあるような気がしています。今日から2か月この「地域協働」「こひつじ食堂」をテーマにして、聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。
今日の聖書箇所は、イエス様がパンを増やしたという「奇跡」に目がゆきがちです。イエス様がマジシャンの様にパンと魚を増やすことをもって、イエス様は信じるに値する人だと言われることもあるでしょうか。イエス様に従えば、奇跡が起きて、飢えることなく、満たされるのだと言われるでしょうか。不思議だけどそれを信じるのが信仰だと教わって来たでしょうか。あるいはこれは食事や腹が満たされるという低い次元の話ではなく、心の内面、魂が満たされたのだと言う人もいるでしょうか。
しかしこひつじ食堂をはじめると、もっと違う読み方ができるのではないかと思います。私は5000人の食事を想像すると、今こひつじ食堂で一緒にしている食事と重なってくるのです。
たしかに聖書の言葉は人々の心の活力になるでしょう。私にとってはそうです。でも私はこひつじ食堂を始めて、言葉だけではない、食べ物を分かち合うことが、どれほど多くの人の励ましになるかを知りました。1食の食事を分かち合うことの喜び、力強さを知りました。
ここで注目をしたいのは、マジックのように食べ物が増えた、あるいは言葉を聞いて満たされたということではありません。ここで注目をしたいのは、食事を分かち合う、一緒に食べるということを通じて、人々の心、体、関係など様々なニーズが満たされていったということです。今日この個所を、食事を分け合った、一緒に食べたということを強調点として見てゆきたいのです。みんなが一緒に食べて、元気になったこと、それは奇跡によってパンが増えたことよりももっと大切なことではないかと思うのです。
食べ物の分かち合いによって、5000人のにぎやかな食事によって、おなか一杯、楽しく食事をした人々はもう一度、生き生きと歩んだでしょう。励まされて、自分の元いた場所に心の余裕を持って戻ったでしょう。ストレスが解消されたでしょう。もしかするとストレスからくる病気がすこし良くなったという人もいたかもしれません。
もちろん増えたパンも気になります。しかしそれももしかすると、私たちの食堂から考えると、人々が持っているパンを分け合ったのではないかと思えてきます。私たちの食堂がそうであるように、どこからか余っている食べ物が届けられたのではないかと思うのです。
13節にはイエス様が「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言ったとあります。この食事の主催者はイエス様です。イエス様がこの食事をするようにと弟子に命じました。それがこの食事の始まりでした。すべての始まりはイエス様の言葉です。イエス様はみんなばらばらに食事をするのではなく、全員で食べようじゃないかと言いました。弟子の役割はそれを準備することだとイエス様は言います。イエス様のこの言葉からこの食事は始まったのです。この言葉は2000年前の言葉です。でもこれは私たちへの言葉でもあるでしょう。「あなたたちが準備しなさい」これがこひつじ食堂のルーツです。
そしてここにはイエス様の招きも記されていると思います。イエス様に従った人々は自分の食べ物すら持たずに従った人でした。着の身着のまま従った人でした。準備の無い人が食事の輪の中に招かれたのです。神様とはそのような招きをするお方です。神様は準備のない人、持ち合わせのない私を、無条件に食堂に招いてくださるお方です。
14節には「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」とあります。この5000人はもともとバラバラの5000人でした。しかしバラバラだった5000人はイエス様の指示によって50人ごとのグループにされます。イエス様はお互いの顔が見えるグループに分けます。そしてそこに座らせるのです。50人は互いがおなかが空いているのを表情から知ったでしょう。名前の知らいない人と名前を教え合ったでしょう。50人の中にかつての友人を見つけ、共通の友人を見つけたでしょう。そうしているうちに奇跡とも言える分かち合いが起きたのです 。
このように神様は、準備の不十分な私たちを、招いてくださるお方です。そして一緒に向き合い、食事をするようにと命じます。弟子が準備するようにと命じます。私たちは顔を見て、分かち合い、一緒に食事をし、互いに励まし合います。そしてお互いにまた力を受けて、それぞれの場所へと戻るのです。私はそのような姿が、5000人の食事でも、こひつじ食堂でも起こっていると思います。
16節には「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」とあります。今日の個所は主の晩餐として行われていることは明白です。「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」とあるのは、主の晩餐の際によく使う表現です。イエス様はこれを主の晩餐として持ちました。
この5000人の食事が主の晩餐だとするなら、私はすべてがつながります。5000人の食事と、こひつじ食堂と、主の晩餐がすべてひと続きのものとしてつながります。実は私たちがしているこひつじ食堂は、5000人の食事であり、主の晩餐なのではないでしょうか。あるいは逆に、5000人の食事や主の晩餐とは実はこひつじ食堂の様な食事だったのではないでしょうか。私たちの食堂は、主の晩餐がルーツだともいえるのではないでしょうか。
今日私たちもこのあと主の晩餐式をもちます。久しぶりに小さなパンとぶどうジュースを皆さんと分かち合います。これから持つ主の晩餐はまさに5000人の食事の出来事です。そしてこひつじ食堂とも似た出来事です。今日それをともにいただきましょう。
私たちは今、イエス様から主の晩餐に招かれています。これを食べる・飲むことによって、バラバラの私たちは、顔の見える、分かち合いの関係の中に入ります。イエス様のもとで分かち合う5000人になります。50人になります。共に食べることによって、こひつじ食堂のように、励まされ、またそれぞれの場所で力強く歩むようになるのです。もしかしたら、このことで病気が楽になる、治る人がいるでしょうか。
私たちの教会では、パンと杯は、バプテスマ(洗礼)を受けたクリスチャンの方とともに食べるとしています。しかし私はいつか17節「すべての人が満腹した」とあるように、すべての人に加わって欲しいと願っています。イエス様はすでに招いておられます。一人でも多くの方が、これに加わって欲しいと思っています。賛美の後、ともに主の晩餐をいただきましょう。私たちは一緒に食べる教会として、地域と共に歩んでゆきましょう。お祈りします。