「はじめての教会」マルコ1章16節~20節

 

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

マルコによる福音書1章17節

 

先週はマルコの最終章が1章につながっているということを見ました。ですから今日は1章、ガリラヤのイエス様と弟子の最初の出会いを見てゆきたいと思います。

教会には絶えず初めて礼拝に来たという方がいます。わたしたちは初めて来た人も大切にする教会です。準備は必要ありません。緊張せず、手ぶら、普段着で結構です。見知らぬ場所、見知らぬ人に会うのはとても緊張して、勇気がいるものです。来るのに勇気がでないという方がYouTubeで、見ているでしょうか。その方たちに伝えたいのは、あなたはここに来てOKということです。すべての人がこの礼拝にふさわしい人です。失敗はありません。とにかくこの時間を一緒に過ごしてくれればOKです。ぜひ一緒に礼拝しましょう。教会はそのような方たちを温かいまなざしでお迎えします。私たちはまず自分から自己紹介をさせていただきます。

とにかく私たちは聖書の事もお互いの事も、わからないながらも、この場所にいよう、人生を一緒に歩もうとする集まりです。今日は聖書から、イエス様のことを全部わかるわけではないけど、私たちは神様に招かれているということ、そしてイエス様と一緒に歩むということを聞きたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

今日はマルコ福音書1章16節~20節です。今週も肝心なことが書いていないと思います。それは弟子たちが従うまでの葛藤です。経緯が記されないと、印象に残るのは、やはり直前の「私についてきなさい」という言葉です。

「ついてきなさい」という言葉は「一緒に歩もう」という意味のある言葉です。つまり「ついてきなさい」とは「一緒に歩もう」という意味です。まずイエス様は、イエス様の方から会いに来てくださるお方です。何の準備もないもない、知識もない者に声をかけるのです。神様は最初は誰にとっても、名前も知らない人です。見知らぬ人です。でもその方に「一緒に歩もう」と誘われ、一緒にいるようになるのです。

そしてイエス様が現れる場所も見ておきたいと思います。イエス様はなんと仕事中に突然現れるのです。神様は日常生活の中に現れると言えるでしょう。

そしてもうひとつ見ておきたいのは、神様は特別な人に現れるのではないということです。知恵と理解力とパワーのある人に現れたのではありません。ごく一般人に、私に現れるのです。初めての人にも現れるのです。それが神様の選びです。神様の温かいまなざしは毎日を生きる私たち、全員に注がれているのです。

今日、私たちはそのイエス様に「一緒に歩もう」と呼びかけられています。イエスさまと一緒に歩みましょう。この仲間と共に歩んでゆきましょう。

神様は私たちの日常に、先に、すでにおられるお方です。先週見た「先にガリラヤへ行かれた」とはそのような意味です。私たちの主は、私たちの日常に先に行っておられます。今週もそれぞれの場所で、共に主イエスと出会ってゆきましょう。お祈りいたします。