【全文】「終わりじゃない、終わり」マルコ福音書16章1節~8節

『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』マルコによる福音書16章7節

 

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、足音をたくさん聞きながら共に礼拝をしましょう。そしてイースターおめでとうございます。イースターを共に祝うことができること感謝です。

何より転入会が起こされたことを大変うれしく、歓迎します。証しを聞きました。17という数字もこの出会いきっかけでした。家族で過ごした最後の17日間。命日だった3月17日。そして私たちの信仰告白の日付が3月17日でした。そして今日は4月17日。そして今日は初めて来たクリスマスから17週間後。今年は初めて教会に通ってから17年目だそうです。不思議なめぐり合わせです。

信仰を改めて強く意識したのは、お連れ合いの死に直面した時だったでしょうか。お連れ合いを天に送ってしばらくは活力がわかない日々が続いたそうです。しばらくして、このままではいけないと思って、そして不思議に予定が巡り合わされこの教会へと導かれました。

誰かの死は人を大きく変えると感じます。特に親しい人の死は私たちの心を大きく動かします。死は人を悲しませ、人の気力を長く奪います。しかし同時に死は、人を動かします。遺された者の生き方を変えるのです。私たちは誰かの死に突き動かされることがあります。

2つの意味で死はスタートです。ひとつは天に召された人にとって、神様のもとでの歩みを始めるスタートです。そしてもうひとつは、地上に残された者たちにとっても、新しいスタートになります。私たちの大切な人の死は、私たちを立ち止まらせます。でもそれはスタートになります。新しい歩みのスタートになるのです。私たちは誰かの死、あるいは自分の死で終わるのではありません。そこから新しくスタートする歩みがあるのです。終わりと思う場所は、終わりではありません。それはスタートにつながっているのです。

終わりの様に見える死も、終わりではありません。お連れ合いは最後に「また、会おうね」と天に召されていったそうです。終わりの様に見える死は、終わりではありません。その証しをこのイースターに聞くことができたのは大きな喜びです。

今日の聖書個所も特に「これは終わりじゃない、スタートなのだ」そのように言える個所です。今日の個所はもう一度スタートをしたくなる、そんな終わり方をしています。それは「終わりじゃない終わり」です。この個所は終わりの様で、始まりなのです。今日見たいことは、復活の主は、終わることなく、私たちに繰り返し、出会ってくださるということです。共に聖書を読みましょう。

 

今日の個所を読みましょう。今日はマルコ最終章16章の1~8節です。聖書がお手元にある方は開いて見て下さい。9節以降には人々がどのように復活の主と出会い、宣教へと派遣されてゆくのかが描かれています。特に「結びの二」の個所を見ると、素晴らしい終わり方だと思います。イエス様が現れて弟子たちは朽ちることのない福音を広めていったと書いてあります。めでたしめでたしのハッピーエンドです。

しかし、実は9節以降を見ると〔カッコ〕でくくられています。ひとつ目のカッコは9節~20節まで、そして二つ目のカッコは結びの二の個所です。聖書の言葉がカッコでくくられている意味は、当初は聖書に書かれていなかった文章で、後の時代の人が後から付け加えた文書だということを示しています。聖書のオリジナルの言葉ではなないのだけれども、後から付け加えられ、聖書と同じように読まれてきた箇所という意味です。聖書なのかどうか、すこし曖昧な箇所でもあります。ここで2つのカッコがあるのは3通りの結末、いろいろな終わり方があったということを示しています。

一つ目はオリジナルです。8節で終わる終わり方です。2通り目は後の時代の人が20節までを付け加えた終わり方です。そして3通り目は、8節の後に結び二を付け加えた終わらせ方です。3通りの終わり方がありましたが、いずれにしても当初はこの8節まででマルコ福音書は終わっていました。

マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたと考えられます。だとするとどのような意味がそこにあるでしょうか。お手元に聖書がある方は9節からを手で覆って、隠してみてください。そうするとわかることは、もともとのマルコ福音書は復活のありさまについて記していないということです。8節は女性たちが恐ろしく思ったということで終わっているのです。イエス様は復活しないで終わります。もしここで福音書のドラマが終わるとしたらどんな印象を持つでしょうか。とても唐突な終わり方に感じます。後の時代の人の中に、こんな終わり方ではよくないと思って、話を付け加えた人がいました。確かに結びの二の方が終わりにはふさわしいでしょう。しかし福音書の著者はあえて8節で終わらせたのです。

もちろん著者は復活の出来事を知っていたはずです。しかしあえてそれを書いていないのです。あえて肝心な部分を書いていないのです。これでは結末として不十分ではないでしょうか。まるで終わり方の中途半端なドラマを見ているようです。え、ここで終わり?と感じるのです。大事なことが書かれていないのです。

しかし8節で終わることはまさしく、マルコ福音書の著者の狙っていることだと思います。え、ここで終わり?ここで終わりではないよね?そう思わせるために、途中で終わらせたのではないでしょうか。

著者は、復活の事をよく知っていたにも関わらず、復活がどのように起きたのかを詳しく描写することをあえて辞めました。この後何が起きたのかを詳しく書くのをあえて辞めたのです。復活をわざと描かなかったのです。

このようにあえて中途半端にマルコ福音書が終わっているとしたら、最後に印象に残るのは何でしょうか。それは終わる直前でしょう。白い長い衣を着た若者が言った7節の言葉が印象に残ります。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」という言葉です。

マルコはイエス様がガリラヤに先にいっているという印象を残して終わっています。それ以降は描かないのです。弟子も何も行動を起こさないのです。なぞはなぞのまま終わり「イエス様はガリラヤに先にいる」という事だけが示されて終わるのです。

テレビドラマだとしたらこの最終話は視聴者を混乱させます。視聴者は不思議に思ってもう一度見返すでしょう。それがドラマ制作者の狙いです。ドラマの制作側からのメッセージは、このドラマの意味を分かるには、もう一度第1話から見てくださいというものです。

つまり「ガリラヤに行かれた」という終わり方は、これまでこの福音書に書かれてきた、ガリラヤのイエス様とはどんな人だったのかをもう一度見るように、そう促しているのです。イエス様が地上でどのように生きたか、1章からもう一度見よと指し示しています。ですからこの16章8節は1章1節へとつながってゆきます。「イエス様は先にガリラヤに行っている」という姿が終わりで指し示される時、私たちはもう一度、イエス様のガリラヤの歩みを読むように促されているのです。

ガリラヤのイエス様の姿を思い浮かべます。イエス様はガリラヤで貧しい人と共にいました。ガリラヤで病を負った人と共にいました。寂しさを抱える人と共にいました。ガリラヤで差別をされる人と共にいたのです。弟子と一緒に食事をしました。罪人と一緒に分け隔ての無い食事をしました。その姿を私たちはもう一度読みます。そしてきっと私とも共にいてくださるだろうと気づくのです。

再びイエス様の地上の歩みを読む時に、十字架のイエス様がガリラヤでどのように歩んだかを知る時、イエス様の姿が、私たちの心の中にもう一度、生き生きと浮かびます。共にいると感じることができるのです。もう一度イエス様と出会うことができるのです。

私たちは今日、そのことを「イエス様は復活した」と呼ぶことはできないでしょうか?

十字架を知った私たちが、もう一度ガリラヤのイエス様の姿を知る。私たちはそのことを私たちの中にイエス様が「復活」したと言うことはできないでしょうか。十字架で終わってしまった、弟子たちも怖がって終わってしまった物語です。しかしそこから私たちがもう一度ガリラヤのイエス様の姿を読むとき、イエス様は復活し、私と共にいる、そう感じることはできないでしょうか。

今日私たちはマルコ福音書を16章まで読み進めてきました。でも私たちは今日からまた繰り返し、聖書を読み返してゆきたいのです。イエス様の復活を聖書の中に見つけてゆきたいのです。そのような意味で、今日の個所は終わりじゃない終わりです。終わりですが、スタートの日です。今日の最終章は終わりではありません。ガリラヤのイエス様の姿を指し示しています。もう一度ガリラヤのイエスを見よと指し示しています。そしてもう一度読み直す時、あなた自身が主イエスの復活に出会うだろうと指し示しています。「復活の主はガリラヤに先におられる」とはそのような意味ではないでしょうか。

今日、私たちはイースターを迎えています。新しいスタートをした仲間をうれしく思います。そして、終わりは終わりじゃないと感じます。終わりはスタートにつながっています。ガリラヤの姿、復活へとつながっているのです。

今日の個所に復活のありさまは書かれていませんでしたが、すでに、先に、復活の主イエスは聖書の中に、ガリラヤの姿に記されています。神様はそのようにして、私たちを、復活の主と出会わせて下さいます。ガリラヤに先におられるのです。終わりとスタートは結び付けられているのです。今日、共にその主の復活、スタートを喜びましょう。お祈りいたします。