「十字架に向かう神」マルコ14章32~42節

イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」マルコ14章33~34節

 

ウクライナで戦争が続いています。自分の死を目の前にして、眠ることができない人がいるでしょうか。私は人間がこのような戦争をすることを恐ろしいと思います。そしてもっとも恐ろしいのは、戦争の中でも神様が沈黙しておられることです。

一方、今日の個所から思い出すことは、私たちの神様は苦しみのただなかにおられる神様なのだということです。私たちの神様は、苦しみもだえ、祈る神様なのです。そのことを今日、覚えたいのです。そして神様がいる場所に、私たちも目を向けたいのです。今日の聖書箇所を一緒にお読みしましょう。

今日の個所で、イエス様は33節ひどく恐れてもだえ始め、34節「死ぬばかりに悲しい」と語っています。イエス様は弟子たちが眠る前から、すでに苦しみ、悲しみを持っていました。やはり、自分が死ぬということが悲しかったのでしょうか。

しかしイエス様の苦しみは、ただ自らの死の恐怖や、孤独だけではないと思います。これから起こる死は、神に最も愛された人の死であり、神の子の死です。人間は神をも残酷な十字架につけることができるのです。イエス様は人間の身勝手さ、残酷さに恐怖を感じているのではないでしょうか。

そして、もう一つイエス様が恐ろしいと感じたことがあったと思うのです。それはこの状況になっても、神様が沈黙を続けているということです。今日の個所には神様の発言はなく、ひたすら沈黙を続けています。イエス様がもっとも恐ろしかったのは、神様がずっと沈黙をしていることだったのではないでしょうか。

そのとき神様どこにいたというのでしょうか。私たちは知っています。神様は十字架の上にいたということを知っています。神様はもだえ苦しみ、死んでゆくものとして、十字架の真ん中におられたのです。私たちの神様は苦難の時、恐怖の時、痛むとき、声はしなくても、共にいるのです。その苦しみの真ん中に共にいるのが神様なのです。十字架はそれを表しています。

今、神様はどこよりも、ウクライナの人々と共におられるでしょう。攻撃された病院のがれきの下におられるでしょう。戦争に恐怖を感じ、傷ついたこどもたちと共におられるでしょう。未来を見渡せなくなって悲しむ人々と共に神様はおられるでしょう。戦争の中で神様はどこにいるのかと叫ぶ時、その真ん中におられるでしょう。神様はそのように苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、あるいは共に死んでゆくお方です。声は聞こえなくもと、神様はそこに確かにおられます。そして神様はもだえ苦しみ、死んでゆく命を、蘇られせるお方なのです。

42節でイエス様は「立て、さあ行こう」と言います。イエス様の目的地は十字架です。十字架に行こうとは共に苦しみの道を歩もうということ、そして苦しみを感じている人に目を向け祈ろうということでしょう。イエス様は立って、十字架に行こうと促しています。私たちはその主イエスに従い、目を覚まし祈り続けましょう。