しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、
皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
マルコ10章43~44節
今日の礼拝を、東日本大震災を祈り続ける礼拝とします。今日は特に原発の問題を覚えます。福島第一原発の処理水は、来年から地元の反対を押し切って放出が始まることになりました。福島の漁師の人たちが、これから犠牲となってゆくのでしょうか。廃炉も進みません。核のゴミ、デブリを誰かが引き取らなくてはならないのです。いったいこれから先、どれほどの犠牲が出るのでしょうか。
原発は、事故以前から誰かを犠牲にする仕組みです。私たちはこれ以上、犠牲の上に成り立つ社会を続けてはならないと思います。東日本大震災から11年を迎える時、誰も犠牲にならないことを求めてこの礼拝を持ちたいと思います。
「イエス様が私の罪の身代わりとして十字架にかかり、それにより私の罪は赦され、神の愛を知った」という理解を贖罪論といいます。贖罪論は古くから信仰の中心として受け入れられてきました 。しかし私個人は苦手で、贖いをうまく説明をすることができません。むしろ贖罪論には注意が必要です。強調しすぎると、犠牲を容認することにつながります。イエス様が犠牲になったのだから、人間が誰かの犠牲になることも、しかたがないないと考えることにつながります。
私はイエス様の十字架を1回限りの最後の犠牲として受け止めています。贖いよりも、十字架の上で苦しんだことに目を向けたいのです。十字架の犠牲の痛みを、もうこれ以上必要がないほど大きな犠牲がささげられたと受け止めたいのです。
今日の個所の42節には「支配者」あります。ローマ皇帝は世界の人々を暴力によって支配し、犠牲にしていました。そんな世界の中でイエス様は43節「しかし、あなた方の間ではそうではない」といいます。誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの快適さを追いかけてはいけないということです。本当に偉い者とは43節「仕える者」です。「仕える」とは食事を運ぶことに由来します。食べ物を自分だけのものとせず、分かち合ってゆくことが「仕える」です。仕えさせるとは無理やり人に食事を運ばせ、奪い、犠牲にすることです。私たちはイエス様に「仕える者となりなさい」、共に分かち合い、お互いに担ってゆきなさいと言われているのです。
イエス様は「自分は」命を献げると言いました。私がすべての人の犠牲の身代金となる。私の十字架で、すべての犠牲を最後としてほしい「あなたがたの中ではもうそうではない」そう願ったのです。
私たちの周りには、まだ誰かを犠牲にする仕組みがたくさんあります。受難節、私は罪が贖われたかどうかより、十字架の苦しさを覚えます。その痛みを知り、その犠牲をもう二度と起こさない、そのことを受難節に覚えたいのです。
今日、東日本大震災の被災者の方々、原発を押し付けられている人々を忘れず、その苦しみからの解放を求めてともに礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。