「信教の自由の礼拝」
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
マルコ福音書2章4節
今月の宣教のテーマは「信教の自由」です。今日は天皇制について考えます。キリスト教が天皇制に反対するのは政教分離以外に人権の問題があります。皇室には基本的人権がありません。選挙権、職業、表現、言論、結婚、そして信教の自由がありません。人権の観点からもキリスト教は天皇制の廃止を主張しています。
自由と、平等を大切にするのが私たち、バプテストです。とても自由な雰囲気の中で礼拝をしています。この自由な姿を大切にしましょう。自由が守られ、この礼拝から自由が広がってゆくように願って、この自由な礼拝を献げましょう。今日は不自由な人と自由な人が登場する物語です。それを見てゆきたいと思います。
今日登場する4人は常識破りで自由な人です。彼らは自分たちが思い立った時に出発しました。それは自由な一歩、自覚的な信仰の一歩でした。彼らはイエス様の語るみ言葉が何か起こすと期待し、出発しました。彼らの自由さは続きます。屋根に穴をあけ、仲間を吊り下げました。なんと縛られない発想、自由な人なのでしょうか。礼拝中はおしゃべり禁止、そういう堅苦しさを全く持たない4人です。
彼らはかなり自由な人ですが、痛みを持ち、立ち上がれない仲間を神様がきっと自由にしてくれるという信頼を持っていました。4人はそのような自由でがむしゃらな神様への信頼を持っていました。そしてイエス様はこの5人のことを神様への確かな信頼を持っている人だと見たのです。そこに奇跡が起こりました。私も神様にそんなまっすぐな信頼を向けてゆきたいです。彼らは聖書の言葉を聞けば自分たちに何か起こると信じ、神様に信頼し、自由に駆け出し、自由に礼拝をしたのです。
そしてこれこそ信教の自由です。自由に信じ、駆け出し、自由に礼拝する。このようにすべての人に信教の自由があればよいと願います。そしてこの5人の自由さを見ると、本当に天皇制の息苦しさに胸が詰まります。
また私が不自由を感じる時、床に横たわり吊り下げられる人に目が行きます。私も同じです。自分ひとりだけでは礼拝できないのです。誰かに誘われ、導かれ、誰かが待っているからそこに集い、神様の言葉を聞くことができるのです。しかしその弱さの中に、不自由さの中に、神様の力は働くのです。
神様の言葉のあるところには何かが起こります。私たちにも今日、何かが起こるでしょう。なかなか体の動かない私たちに、立ちなさい、行きなさい、自由になりなさいと励ましの言葉がかけられるでしょう。み言葉というのはそのようにして、人にはできない出来事を起こすのです。自由さを起こすのです。
私たちは礼拝できる自由があります。そしてこの礼拝は自由を分かち合う礼拝です。私たちを自由にする礼拝です。この礼拝から、礼拝する自由、信教の自由が日本と世界に、天皇制の廃止へと広がっていくことを願います。お祈りします。