それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。
マルコによる福音書4章31~32節
2月は信教の自由を宣教のテーマとします。17世紀のアメリカには、信教の自由がありませんでした。選挙権は教会籍のある人に限定されました。通う教会は政府が指定し、それ以外の教会に出席すると処罰されました。政府が公認した牧師のみが説教し、資格のない人が説教をした場合、死刑にされることもありました 。
そんな時代に自由と自覚的な信仰を守ろうとするバプテストというグループがいました。彼らは本人の自覚のない洗礼をせず、無資格の牧師を自分たちで選び礼拝するという危険なグループでした。そして信じる宗教によって行政が迫害や処罰をすることに反対したのです。これがアメリカの信教の自由の始まりとなりました。
やがてアメリカの憲法第一条には「この国では国教を定めてはならない」「自由な宗教活動を禁止する法律を制定してはならない」と記されました。私たちバプテストには信教の自由を見守り続けてゆく責任があるのです。
今日の箇所、イエス様は神の国について種まきとからし種のたとえ話で教えています。神の国とはキリスト教が国教になること、全員が洗礼を受けることではありません。では神の国とはどんなところでしょうか。農民にとって種まきとはたくさんの収穫を願いながら、希望を持って行うことでした。やがてそれは29節「収穫の時を迎える」のです。神の国とは花や作物の種を植えて、収穫をすることに似ています。希望の種、期待の種があり、豊かな恵みがある場所、それが神の国なのです。小さくても希望があるところ、種をまくことができる希望、それが神の国です。
そしてからし種は小さな種ですが、大きく豊かに茂ります。神の国とは小さな希望が大きく広げられるところだということです。私は信教の自由を訴えた少数派、バプテストをこのからし種に重ね合わせます。ごく少数の訴えた信教の自由がやがて一つの国の基礎となったことに重なります。私たちバプテストはからし種だったのです。そして神様はからし種のように信教の自由を広げて下さるお方なのです。
またからし種は生命力が強く、一度生えると除去するのが難しい、危険な草という特徴もあります。神の国、その種とは小さく、踏みつけられてもまた生えてくる、どんな困難な時も無くならない希望が神の国の種なのです。
神の国とは小さくても無くならない希望のある場所です。神の国はからし種のようなものです。そしてバプテストもからし種のような存在でした。そしてバプテストの訴えた信教の自由も神の国の種だったのです。私たちもこの種をいただいてゆきましょう。そして私たち自身も種になってゆきましょう。
私たちは小さくてもこの信教の自由を大切に守ってゆきたいのです。そして私たちの希望はなくならないのです。雑草のように、抜いても抜いても生えてくる草のように、私たちは希望をあきらめないでいたいのです。お祈りします。