わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。/わたしは若者にすぎませんから。」 エレミヤ書1章6節
今日この後は臨時総会が持たれますが、もしみなさんが執事に選ばれたらどうするでしょうか?「どうしよう、なんと言って断ろうか」と考えるでしょうか。できない理由というのは無限にあるものです。私たちの選挙は、不十分な制度の中で、不十分な私たちが、不十分な者を選ぶ選挙です。仕組みにも個人にも不十分ばかりです。
私たちはどのように投票をしたら良いでしょうか。私にはできないから、あの人にお任せしようと投票することは、もうできないでしょう。きっとあの人もできないのです。あの人だって事情があってできないのです。
私は誰かを選ぶけれども、私も精一杯を献げるという思いを持って投票をすることが必要でしょう。私たちは「私もできる限りの精一杯を担う」そのような思いで投票をしたいのです。共に精一杯を献げるという気持ちを持って投票をしましょう。
そして今日の聖書から一緒に、神様の選びを見てゆきましょう。私たちがお互いから不十分な者を選ぶように、神様も不十分な者を選ぶお方なのです。
今日の箇所では神様はエレミヤをイスラエルの預言者として選んでいます。エレミヤはその選びを断っています。自分は未熟で、その働きには不十分だというのです。このように、神様はできる人ではなく、できない人を選んだのです。一見、不適切、不十分と思われる人を、ご自分の働きのために選んだのです。
そしてエレミヤはその後、神に守られ何不自由なく暮らしたのではありません。人一倍苦労の多い道を歩みました。彼は聖書の中で繰り返し、つらくて涙を流すので涙の預言者と呼ばれます。8節「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」は、万事うまくいくという意味ではありません。つらくて涙を流す時も、そのような時こそ神が共にいるという意味です。
私も様々な働きを通される時があります。しぶしぶ受けた働きで苦労するときがあります。そんな時、このエレミヤの姿に励まされます。それはたとえどんなに神様の導きを感じたことだとしても、その働きがうまくいくわけではないということを教えてくれるからです。あのエレミヤでさえうまくいかなかったのです。私にもきっとうまくゆかないのです。あのエレミヤでさえ泣きながら働いたのです。やりたくない、できないと何度も不満を言いながら、働いたのです。しぶしぶ受けても、できなくても当然です。うまくいかなくても当然です。泣いてもいいのです。不満を言いながらでもいいのです。そのただなかにこそ神様は共にいてくれるのです。
私たちは自分の精一杯を献げたいのです。私たちの先にはきっと喜びと、そして涙があるでしょう。それを共に受けてゆきましょう。私たちは一緒に喜び、一緒に涙する仲間となってゆきましょう。わたしは必ずあなたたちと共にいるという神の下で、共に精一杯をささげてゆきましょう。お祈りいたします。