イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。 マタイ8章14節
今週から地域と福音というテーマ、特にホームレス支援、こども支援について聖書に聞いてゆきます。私たちが地域と関わるのは教会員獲得のためではありません。聖書にイエス様が多くの困っている人を訪ねたと記されているから、私たちも地域に関わるのです。そこに神様との出会いがあるのです。
私は市内のホームレスを巡回する、平塚パトロールという活動をしています。Mさんは平塚駅前のバス停のベンチで4年間寝起きしているホームレスの方でした。1年ほど毎月パトロールで訪ね続けましたが、小さな一言から生活保護を申請することになりました。Mさんが路上に出てしまう前後に必要だった事、それは短くとも訪ね、共に悲しみ、慰めることだったと思います。パトロールとは短い訪問ですが、そこから開ける未来があったのです。
きっとそれは私たちの生活の中でも同じことだと思います。私たちの生活にも孤独があります。その時、短い一声が一歩前に歩むきっかけになることがあります。一言声をかける、それなら私たちにもできる事でしょうか。
イエス様は人間の弱さ、人間の無力さをよくご存じです。そしてその人々を訪ね、関わり、励ましてくださるお方です。今日私はイエス様が人々を訪ねた姿を聖書から見てゆきたいのです。
今日の聖書個所によれば、14節、イエス様はイエス様の側から訪ねてくださるお方です。私たちが病の時、苦しいとき、イエス様に会いに行く、すがるのではありません。それは神様の一方的な愛、無条件の愛と言えるでしょう。そしてこの訪問で私は病が癒される以前に、癒されていたものがあったのではないかと想像します。きっと彼女が感じていた不安や孤独は、イエス様が訪問した時、病より先に癒されていたのではないでしょうか。そして彼女はもう一度、立ち上がることができました。他者のため、イエス様のために、働こうと立ち上がったのです。
私たちにはイエス様のように病を癒す奇跡の力はありません。でも似たこと、イエス様の真似事ならば私たちにもできるのではないでしょうか。さみしいと感じる人、不安に思っている人に声をかけ、触れあう、関わりあう。そんな小さなことからその人が元気づけられ、一歩を歩みだすこと、それは私たちにもできることではないでしょうか。私たちもそのイエス様の働きをしたいのです。
神様はこのように、私たちを訪ねてくださるお方です。私たちを一方的に愛し、訪ねてくださるお方です。私たちを励まし、立ち上がらせてくださるお方です。神様は訪ねてくださるお方です。私たちも訪ねること、声をかけてゆくことをしてゆきましょう。