【全文】「こどもを大切にする教会」マルコ10章13節~16節

 

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10章14~15節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもの声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。また今日はこの後、こども祝福祈祷の時を持ちます。

毎週こどもを大切にするという言葉から宣教を始めていますが、私たちがこどもを大切にしているのは、なぜでしょうか?マクドナルドもこどもを大切にしています。こども向けにハッピーセットという、おもちゃのついたメニューがあります。こどもを呼べば、大切にすれば、一緒に来た親も何かを買ってくれるからです。売上のためにこどもは大切です。さらにこどもは将来のお客さん、未来の売上にもつながります。このように企業の成長のために、マクドナルドはこどもを大切にしています。

教会もこどもを大切しています。こどもが来れば、親も一緒に来るようになるでしょう。そのこどもが将来教会の奉仕を担ってくれるかもしれません。元気な子供がいたら教会も活性化するでしょう。教会にこどもがいることのメリットは多いものです。

しかし、私たちは教会にとってメリットが多いから、こどもを大切にするのではありません。教会の成長のために、こどもをターゲットにしているのではありません。それは私たちがこどもを大切にする理由ではありません。

子どもを大切にする、それはもっと深く広がりのある意味を持っています。私たちにとってこどもを大切にするとは、一人前ではない、半人前の人こそ大事にするということです。誰かに世話をしてもらわなければいけない人を大切にするということです。人の役に立つことができない存在を、誰かに頼らないと生きてゆけない人を、この教会は大切にするということです。それがこどもを大切にする教会です。

ですから教会が大切にするのはこどもだけはありません。教会は誰かの助けが必要な人を大切にします。教会は生活に困っている人、障がいをもっている人、誰かに頼りたい人、心の支えが欲しい人、一人では生きていけない人を大切にします。

こどもを大切にする教会は、子ども以外も大切にします。その中にはきっと、私も含まれるでしょう。私もこどものような一人です。一人では生きていけない。誰かに助けてもらわないといけない半人前です。

こどもを大切にする教会は、助けを必要とする人を大切にする教会です。私たちは神様を頼りとし生きています。そしてお互いを頼りとして生きています。私たちも誰かに頼り、甘え、助けを必要とする、こどものような一人です。こどもを大切にする教会は、全員がこどもである教会です。私たちは全員こどもです。助けを必要とし、それを受け入れる存在です。それが私たちです。

今日の箇所は、私たちにこどもの様に、神の国を受けとめるようにと語っています。それは自分が誰かの助けを必要な者である、神なしでは立つことができない、そのような者に神の国が来るということです。このことを聖書から読んでゆきたいと思います。

今日の箇所を読みましょう。こどもがたくさん出てきます。にぎやかだったでしょうか?現代に生きる私たちはこどもを「ほほえましい存在」として、一人の人格として見ます。しかし聖書の時代の子供たちはもっと厳しい環境にありました。ある研究によれば当時イスラエルで生まれた子どものうち3割しか16歳になることができなかったといいます。

それ以外の7割は出産や成長の途中で死んでしまいました。病気や事故だけではありません。戦争や飢饉があれば真っ先にこどもが犠牲になりました。さらに当時は孤児や、みよりのない子どもも多くいました。

13節には「人々」という言葉が出てきます。ここに「親」と書いていないのは、親のいない子ども、親ではない大人がその周りにいたからかもしれません。こどもは、そのような環境で生きなければなりませんでした。

親や周りの大人は、きっとそのようなこどもたちに、イエス様に少しでも出会い、触れてほしい、そう願って、連れて来たのでしょう。無理やり連れてきたのではありません。「さあ触れてもらいなさい」と、そっとイエス様の前にこどもを連れてくるのです。いろいろな大人たちの温かいまなざしが伝わってきます。

しかし13節の後半を見ると、弟子たちはそのこどもたちが進み出てくることを強く注意したとあります。怒られたのもまた「人々」とあるだけで、誰が怒られたのか書いてありません。叱られたのは大人たちとも読めます。だとするなら「あなたは親なんだからこどもをちゃんと静かにさせなさい、後ろに座らせてなさい」と怒られたのかもしれません。

あるいは直接こどもが怒られたとも読めます。「うるさい。あっち行ってなさい」と怒られたのです。大人もこどもも、両方怒られた可能性もあります。いずれにしても弟子たちの態度はまず、大人の気持ちを踏みにじるものだったでしょう。大人たちが持っていたこどもをそっと信仰に導こうとする姿勢、願い、まなざしは、弟子たちによって完全に踏みにじられました。そしてこども自身も拒絶され、傷ついたでしょう。

弟子たちはなぜ怒ったのでしょうか。イエス様を求める人々の群れをしかりつけたのでしょうか?実はこれも不思議です。人々がイエス様の話を遮ったというわけでもありませんし、触ってもらおうとしただけなのに、どうして怒られたのでしょうか。こどもを静かにさせるのが親の責任だと考えて怒ったのでしょうか?ちゃんと教育しろと怒ったのでしょうか?

イエス様に触ってもらうには、こどもではなく、もっとふさわしい人がいると思ったのでしょうか?こどもではなく、もっと偉い人から順番に触ってもらうべきだと考えたのでしょうか。あるいはイエス様を守ろうとしたのかもしれません。イエス様が穢れたこどもと触ることの無いようにしたのかもしれません。でも私だけでしょうか。弟子たちはどこかイエス様のために怒って追い返したというよりかは、自分たちのためにそうしたと感じるのです。自分がそばにいるイエス様は簡単に近づけない人なのだと、特別な人しか近寄れないのだと言っているように私には聞こえます。

そしてそんな場面にイエス様が登場します。今度はイエス様が怒って言います。14節15節にはこうあります。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 

要は「こどもたち、どんどんおいで」と言うのです。そして16節、彼らを受け止め、抱きしめてくださるのです。

今日の箇所によれば、こどものようではなくては、神の国には入ることができないとあります。ここにあるこどものようとは、天真爛漫、無邪気、元気、かわいいという意味ではありません。こどもとは、自分のことが自分でできない人のことです。一人では生きていけない人のことです。誰かに頼らないと生きることができない人のことです。社会の中で真っ先に犠牲にされてしまう人のことです。

イエス様はそういうこども・人が神の国に入ることができると言っています。神の国は何かができる人、他の人より優秀で、生産性が高い人、実績のある人、特別な人が入るのではないのです。こどものように、誰かを頼り、弱く、社会で小さくされた人こそが、神の国に入る、聖書はそう語っているのです。

イエス様は頑張った順に救われていくという、私たちの常識を全く逆転させて語っています。その逆です。何もできない、弱い者こそ神の国に入るというのです。だからこどもどもが神の国に入るのです。

こどもは成長するにしたがって出来ることが増えてゆきます。そしてなんでもできると思うようになります。そしてそのような時期のこどもが一番危ないのです。大人も同じです。私は一人でできる、一人で生きようとする時が、一番危ないのです。神の国から遠いのです。

私たちも何もできない、一人では生きていけない、こどものように生きるように勧められています。私たちは一人では立つことができない、神様を必要とするものです。私たちもこどもなのです。

こどもがそうであるように、私たちも支えを必要とし、祈りを必要とします。そしてそのような、一人では生きることができない、半人前の者として神様の前に進み出てゆくのです。こどものようになるとはそのようなことです。

こどもが親や大人に頼るように、私たちも神様や他者に頼って生きるのです。そのような歩みの上に、神の国が訪れるのです。私は大丈夫、自分のことは自分でできると思うところには神の国は来ないのでしょう。

私たちは神様に頼り、仲間に頼ります。その信仰を持って歩みたいのです。それが15節こどものように神の国を受け入れるということです。

それは私たちが、一人で生きなくていいということを示すでしょう。私たちは一人前でなくていいのです。子どもみたいに誰かに頼って、泣いていいのです。そのような人こそ、神の国に入るとイエス様は言っています。

それは私たちにとって福音でしょう。私たちはこどもを大切にする教会です。誰かに頼る人を大切にする教会です。私たちはみんな、誰かに頼る、こどものような人が集まる教会です。でもそこに神の国が始まるのです。

こどもが神と人との助けを受け、神の国を受け入れているように、私たちも神と人との助けを受け、神の国を受け入れてゆきましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。神を互いを、なくてはならない存在として大切にする教会です。お祈りします。