お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。
イザヤ書1章15節~16節
今日から3回「礼拝」をテーマに宣教をします。平塚教会の礼拝は変化し続けています。最近ではこどもメッセージ、こどもスペースが変化しました。またコロナ・ウイルスによっても変化しました。それでもこれで完成というわけではありません。私たちが礼拝で何を大事にするかは、その時の信仰と社会の状況によって変わります。礼拝はこれまでも、これからも変わり続けます。
礼拝は神様が主催者です。しかし同時に、どのように礼拝をしてゆくかは人間が、信仰によって決めることです。それを真剣に考えてなくてはいけません。一番怖いのは「これでよい」と決めつけてしまうことです。そしてこの礼拝を私たちが生きる、残りの6日間としっかりと結び付いているものにしたいのです。
今日の聖書を読みましょう。当時の人々もきっと一生懸命に礼拝し、献げ物をしてたでしょう。しかし神様は喜んでいないようです。この教会の礼拝も、神様どう感じているのか心配になります。15節にはその手が血だらけだとあります。一生懸命礼拝しているが、残りの6日間は誰かを傷つけて、手が血にまみれになっているということです。神様は礼拝も献げ物も大事だけど傷ついている人をしっかりと見なさいと言っています。礼拝には一生懸命だけど、残りの6日間で困っている人、小さくされている人を忘れていないか?社会に、世界に目を向けているか?あなた個人の礼拝になっていませんか?と神様は問いかけているのです。神様は礼拝なんかしなくていいと言っているのではありません。社会、世界で起きている問題を無視して行われる礼拝はもう飽きたと言っているのです。
ここでは二つの方向が示されているでしょう。ひとつは礼拝は必ず生き方を変えるということです。生き方を変えずに礼拝をすることは、血だらけで礼拝することです。もう一つの方向は生き方が変わる時、礼拝が変わるはずだという方向です。生き方の変化を願う時、礼拝に変化が起こるのです。
礼拝から世界が変わり、世界から礼拝が変わるのです。生き方の変化が礼拝を変え、礼拝の変化が生き方を変えるのです。私たちの生きる場所、生活の場所が変化するように、教会の礼拝も変化してゆく、礼拝の献げ方も変わってくるのです。そして礼拝から私たちの生活・世界が変わるのです。
この今持っている礼拝と同じように、神様に祈り、聞いてゆくこと、こどもを大事にしてゆくこと、そのような1週間を歩んでゆきましょう。そしてまた集いどのような礼拝がよいかを考えましょう。このあと私たちは主の晩餐を持ちます。もちろんこれも今の形が完成形ではありません。問い続けるべきことがあるでしょう。問い続ける中で、今日もこれにあずかってゆきましょう。お祈りをします。