「平和を造る者になりなさい」マタイによる福音書5章9節~28節

 

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

マタイによる福音書5章9節

 

平和をテーマに聖書を読んでいます。1945年7月16日深夜、平塚大空襲が始まりました。76年前の7月、私たちのいる場所は戦場でした。この空爆は工場を狙ったのではなく、一般市民が狙われました。その証言によれば、その時の平塚は生き地獄だったと証言されています。

戦争は国と国、軍人と軍人の戦いではありません。空爆は必ず一般市民が対象になります。空爆の中身は結局、市民虐殺です。このような空爆はいまもシリア、ミャンマー、パレスチナで繰り返されています。またある証言は一か月早く戦争をやめていたら空襲はなかったはずだと証言しています。しかし日本は天皇を神とする国には必ず神風が吹くと信じ、この戦争を続けたのでした。

私は空爆では平和は実現できないと思います。戦争を終わらせること、平和を実現すること。それは本当に難しいことです。しかし私は、一人一人が平和を大切にし、訴えてゆくことが世界の平和につながると思います。聖書は「平和を実現する者は幸いだ」と言っています。この平和を実現するとはどんなことでしょうか。

今日の聖書を読みましょう。イエス様の十字架の後、ユダヤとローマの間には激しい戦争が起きました。マタイによる福音書を書いた人々は、その戦争から逃げてきた難民でした。彼らは戦うことを選ばない、非暴力、非武装を貫く人々でした。

「平和を造り出す者」とありますが、実は当時、ローマ皇帝が「平和を造り出す者」と呼ばれていました。ローマの軍事力によって世界に平和がもたらされているという意味です。「神の子」も同じです。当時ローマ皇帝が「神の子」と呼ばれていました。神とは戦争の神です。

ですから今日の箇所は明らかにローマ皇帝を意識して、言葉を選び、書かれています。地上ではローマ皇帝が、戦争の神の子、軍事力で平和を造り出すものと言われている。しかし私たちは皇帝のように軍事力・暴力によって「平和を実現するもの」にはならないと語られているのです。

マタイたちは、皇帝ではなく、私たち一人一人が平和を実現する者となるのだと考えました。軍事力ではなく、一人一人が隣人を愛することで平和を造るのだと考えたのです。神は平和を願っていること、そしてその平和の担い手は皇帝ではなく、支配者ではなく、私たちなのだ、私たちこそ平和のために用いられる「神の子」なのだと語っているのです。

私にはこの言葉が戦争を体験したマタイたちの平和宣言に聞こえます。空爆・軍事力では平和は造れないのです。聖書はこのように私たちを平和へと導いているのです。聖書をから平和を実現してゆく力をいただいてゆきましょう。一人一人が平和を求めましょう。一人一人が祈り、働きいてゆきましょう。