わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 マタイによる福音書16章24節
今日私たちは10年前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地を覚えて礼拝を持ちます。被災地では今も失われ続けているものがあります。震災からの復興は、ただ津波に強くなる、住宅ができる、人が戻ることだけでは解決になりません。そして原発の問題はほとんど進展がありません。自分の痛みは忘れないように、まだその痛みが続いている人を忘れないでいたいのです。私たちにできる祈りをささげてゆきたいのです。
3月の宣教のテーマは受難としています。今日は、自分の十字架を背負うとは他者の痛みを覚え続け、痛みに連帯をすることだということを考えます。聖書に聞いてゆきましょう。
十字架を背負うとは、一般的には「長く我慢すること」を意味しますが、私たちはそのような意味には使いません。自分の十字架を背負うとは、イエス様が感じた、あの十字架の痛みを私も体験するということです。ではイエス様の十字架の痛みとはどんな痛みでしょうか。
貧しい人、差別を受けている人、汚れていると言われてた人、ゆがんだ構造に搾り取られていく人、イエス様はその人々の為に歩んできました。あるいは干ばつなどの自然災害で生活基盤を失った人たちも含まれていたでしょう。そして苦しむ人々が力をつけてゆく姿は、権力者たちには危険に思えました。だからこそイエス様を十字架に架けると決めたのでした。
イエス様が背負った十字架、それは共に苦痛を味わい、その理不尽に反対するという意味を持ちました。自分の十字架を背負うとは他者の痛みに連帯し、それを取り除こうとしてゆくことと言えるでしょう。
イエス様の苦難の予告を聞いたペテロは「あなただけは生き残ってほしい」と願いました。しかし自分だけが救われる道を選ぶとするならば、そこで人間性が失われます。全世界を手に入れても、もし人間性が失われたら、他者の痛みを見て見ぬふりをするなら、何の得になるのでしょうか。どんなものよりも、その人間性が大事だとイエス様は言っているのです。自分だけが生き残る道、それこそが十字架を背負わない生き方です。
私たちは東日本大震災から10年を迎えます。私たちは自分の十字架を背負って生きることができているでしょうか。他者の十字架を背負うことができているでしょうか。自分の十字架、それは被災地の痛みと伴い、生活の再建を具体的に祈り、働いてゆくことです。私たちが同じ人間として共に痛み、苦しみ、働いてゆくことが、十字架を背負うことです。これからも私たちは被災地のために祈り、働きましょう。私たちの十字架を背負いましょう