「キリスト教とLGBTQIA」サムエル記上18章1~4節、19章1~2節

 

「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」サムエル記上18章1節

 

LGBTQIAを「罪」「罪深い欲望」「人間の堕落」であるとする教会が多くあります。LGBTQIAを歓迎する教会といっても、実は「罪人」として迎え、異性に興味を持つ様に「悔い改める」ことを祈り教会も多くあり注意が必要です。ありのままで積極的に受け止める教会は多くありません。では私たちの教会はどうでしょうか。私たちの教会、信仰においてLGBTQIAは「罪」でしょうか。私個人はまったくこのことを罪だとは思いません。私は神様がLGBTQIAの人々をそのまま愛し、生きよと言っていると信じます。

そもそも罪とは何でしょうか。様々に表現できますがひとつに、罪とは「対等な関係でないこと」と言えると思います。相手に上下関係を押し付けること、自由を奪うこと、偏見と差別をもって命に優劣をつけようとするのが罪といえるでしょう。それぞれの性と命を、自分の命・性と同じように大切な命・性として尊重できないことが罪でしょう。

今日はダビデとヨナタンの物語を読みます。私たちはこれまでこの話を「男の友情」と受け取ってきたかもしれません。しかしもう一度この物語をLGBTQIAの視点で読み直してみたいのです。この物語から同性同士の深い愛情、対等で信頼し合う深い愛情を読み取ってゆきたいのです。

ヨナタンという男性は深い愛情を同性であるダビデに感じました。この二人は本来、戦争で手柄を挙げた羊飼いと、王子という圧倒的な上下関係の中にありました。しかし深い愛情を持ったヨナタンはダビデとの関係をまったく対等に持とうとします。相手に尊敬と敬意を持ち、一人の人間として向き合ったのです。聖書はこの二人がとても親密な関係であったことを描いているとともに、対等な関係であったということも丁寧に描いています。

この二人の男性は深い愛情をもって接していました。同性愛とも十分に解釈できると思います。そしてそれは罪として扱われていません。美しい同性の愛情として聖書には記録されています。

このように、多様な性・愛の在り方が聖書にも記録されています。それは決して罪ではなく、相互の対等な関係として、美しいものとして描かれています。私はこの個所から多様な愛、性の在り方に心がひらかれてゆきます。深い愛情は異性の間だけではなく、同性の間にも同じ様にあるのです。

私たちはすべての命・性と対等に向き合いたいのです。すべての性が平等に生きることができる社会と教会を目指したいのです。私たちの間にある性差別、性的少数者への差別が無くなるように共に祈り、共に礼拝してゆきたい、共に働いてゆきたいと思います。