「わたしたちも礼拝に集いたい」マルコ3章20節~35節

ふじみキリスト教会でLGBTの学びを行ったきっかけは、教会に来た「キリストの風」集会からのアンケートだった。私はこの学習会の担当を依頼され二つ返事でOKした。引き受けたのはLGBTの友人たちの苦悩を知りながら、何もしてこなかったことへのおわびの気持ちから。LGBTをからかうような青年時代、あるとき「自分はレズビアンなんです」という告白を聞いてはじめて、身近に感じ、真面目なことだと知った。それからLGBTのクリスチャンたちと出会い、礼拝参加自体が決して簡単なことではない事を知った。しかし、知っていながら私は教会で何もしてこなかった。「キリストの風」集会からのアンケートから「私たちも礼拝に参加したい」「信仰の交わりに加わりたい」という切実な願いを感じる。それは同時に「あなたの教会の信仰の交わりに私たちは加われますか」という問いかけ。私自身、そして教会自身が問われている。イエスだったらどうされるか。

28節は人間に対する神の無条件の赦しが語られている。神への冒瀆さえも赦されると。そして29節が続く。「聖霊を冒瀆する」とはこういうこと。聖霊とは神が私たちに働いている働き。それを冒瀆するとは、いま神が働いていることを否定すること。つまり神の赦しや祝福を否定すること。神はどんな人に対しても働いている。神の赦し、祝福は全ての人に与えられている。そのことを否定してはいけない、と。イエスの周りには弟子、そして群衆、当時「罪人」と言われた人々がいる。家族が呼び戻しに来たときの「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」は家族に向かっての言葉ではなくイエスを囲む人々への言葉。当時「罪人」と呼ばれた人々に対してイエスは「あなたがたは神の御心を行う人だ」と語る。つまりイエスは彼らのことを「罪人」とは考えていない。神が働いている人々。神のゆるしの中にいる人々。だからこそ、この人たちに神が働いていることを否定しては絶対にだめだ、という。

イエスの家族が気にしたのは噂話、つまり世間体。律法学者が気にしたのは誰が正しい人で誰が罪人かということ、イエスが気にしたのはこの目の前の人々、群衆。当時の「罪人」は個人的な過ちを犯した人々というよりも職業や身分に近い。徴税人、血を扱う食肉や皮なめしを生業にしている人々、病い、障害を持った人々。それは自分ではかえられないもの、現代のLGBTもそう。私たちが神の前に集えるのはただ、神によってゆるされているから。私たちは何か条件を満たしているから神にゆるされるわけではない。イエス・キリストが「いいよ」「私のもとに来なさい」と言ってくれるから。ただそれだけ。私たちはそんな神のゆるし、なんの条件もない無条件のゆるし、神の愛への感謝から始めるしかない。そしてそこから始めればよい。