「神の性平等宣言」ガラテヤの信徒への手紙3章26節~28節

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。             ガラテヤ3章28節

 

今月私たちは男女平等と、性的少数者について聖書に聞いています。社会、教会、家庭で女性が役割を押し付けられたり、奪われることに反対をします。

私たちは特に女性牧師について考える必要があります。米国南部バプテストの2000年に出した信仰告白では「牧師の職は聖書によって資格づけられた通り、男性のみに限定されている。」(Ⅰペテロ5:1~4)とあります。つまり女性は牧師になれないのです。対して日本のバプテストは性に関わらず牧師となることができると考えます。そしてガラテヤ書3章28節に立ち、性差別に反対を表明しています。私たちは聖書があらゆる性の人々が神様の前、社会の中において平等に生き、働くことを宣言していることを見ます。

パウロが手紙を送ったこのガラテヤの教会でも分断と差別が起ころうとしていました。二つに分断した人々へパウロは言いました26節「あなた方は皆、神の子だ」と。全員に対して「全員、神様の子どもです」と呼びかけたのです。しかしガラテヤの教会には自国民の身分の高い男性が、より神様に近いと考えていた人々がいたのでしょうか。外国人の身分の低い女性が神様から一番遠いと考えたのでしょうか。

聖書はどの民族か、どのような身分か、性別がどうかは神の前で一切関係ないと教えています。パウロはゆがめられた関係性に反対をしています。その差別は必要ない、必ず終わると宣言しているのです。

そしてその時にパウロが繰り返し強調しているのは、それがキリスト・イエスによって起こるのだということです。私たちのゆがんだ関係はキリストによって、本来の姿へと回復されてゆくのだと言っているのです。私たちの中には今なお性による差別が多くありますが、その差別は私たちが神様から力をいただいてこそ、乗り越えてゆけるということです。

私たちは神様の前に平等です。教会の中で平等です。そしてそれは教会の中にとどまりません。その平等は社会や家庭の中に広がってゆくのです。そして28節には私たちは一つだということが強調されています。神様の下に、それはもともと一つのものだったということです。私たちは差別を超えて、必ずひとつに戻ることができるということです。

聖書はキリストにある平等が宣言されています。私たちの社会や教会にはまだまだ見えない差別、性差別、格差が存在します。しかし私たちのその差別のただ中に、神の平等宣言が響きわたっています。神様は性の平等を宣言しておられます。ゆがんだ関係が、神様の平等に戻されてゆくように祈り、働いてゆきましょう。