みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですけれども、互いを感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も集ってくれているでしょうか。一緒にみ言葉を聞きましょう。
私たちは今月、協力伝道をきっかけに聖書を読んできました。私たち一人一人が交わり、助け合うことが必要なように、一つ一つの教会も協力が必要だということを見てきました。国外伝道の働きや牧師養成の働き、今この変化の時互いに学びあう存在としてお互いが必要であるということを見てきました。私たち一人一人と同様に、教会同士も愛し合い、励ましあい、助けあい、学びあうことを見てきました。
平塚バプテスト教会の歴史の中で、もっとも協力伝道の愛を感じたのは、おそらく無牧師の時期ではなかったでしょうか。梶井先生の退任から杉野先生の着任までの期間の無牧師の時、礼拝の宣教を自分たちで担わなければならなかった時、他の教会から宣教の奉仕に来てくださった先生のどれほど大きな愛を感じたでしょうか。私も信徒の時に無牧師を経験し、信徒説教の大変さを経験しました。他の教会からの協力がどれだけ大きな助け、愛だったのかをよく覚えています。神奈川連合の牧師がかわるがわる宣教を担ってくださいました。
教会は70年間で3500回以上の礼拝をしてきたとして、無牧師の期間はそれは半年ほど30回ほどだったのでしょうか。歴史の中からすれば、それは点のような出来事かもしれません。
でもそれは、確かに教会同士が助け合った「愛」の実践でした。小さい点のような出来事ですが、そこには大切な教会同士の愛が示されていたのではないでしょうか。周囲の教会が平塚教会とそこに集う人々を愛し、支えてくれたこと、それによって礼拝が守られたのです。歴史の中では、昔の事、ほんの一瞬の事、点のような事であるかもしれませんがそれは、大切な愛の記憶としてずっと覚えておきたいことです。この支えがなければ、私たちの礼拝は途切れてしまっていたかもしれないのです。
「愛」とは長い文脈の中から見れば「点」のようなことかもしれません。しかしその「点」はとても大事な「点」で、それによって私たちは支えられているということがあります。愛は小さな点のようなものかもしれません。しかし単語や文章に一点一画が抜けてしまうと全く意味が違ってきてしまうことがあります。愛もそのように点の様に小さくても、もし無ければ遠くからは同じことのように見えても、全く違うものなのです。愛は全体からすれば、小さな点であるかもしれないけれども、全体の意味を決定する、大事な「点」なのです。決して失われてはいけないこと。絶対に変えてはいけないこと。忘れてはいけないこと。それが愛です。
そして愛の形は変化し続けるものです。特に今の時代は大きく変化をしています。例えばたった1年前まで、私たちは礼拝の中で互いに握手することが愛の表現でした。しかし今は握手をしないことが愛になりました。互いに距離を取り合うことが愛になりました。無牧師に対する協力という愛の形も、きっとオンラインにされることも増えてくるでしょう。
愛の形は変わり続けます。しかしいつも事柄の中心にある「点」、愛に目を向けていたいのです。そして愛の形が変わるように、私たちの協力関係の形も時代によって変わり続けてゆくのです。
そして変化してゆくとは今までの事をすべて忘れる、捨てるのではありません。今まで大切にしてき点・愛はこれからもずっと大切にしてゆくのです。点のような出来事だったかもしれません。小さかったかもしれません。だけれども、その「点」は確かに必要な「点」だったのです。点が無いと全体の意味が変わってしまいました。この単語、この文章、この歴史は、愛があって初めて完成させられてきたのです。この点のような愛が、すべてを形作ってきたのです。愛がすべてを完成させてきたのです。
いまこの時代で、これからどのように愛を実践してゆくか、新しい形が問われています。私たちは様々に形を変えるけれども、イエス様が教えてくれた愛を大事にしてゆきたいのです。イエス様は、愛は「点」のように小さく見えるかもしれないが、その愛こそ大事にせよと教えておられます。
今日の私たちは聖書の個所から、このことを頂きます。愛は点のように小さくとも、全体の意味を決定する大きな役割を持っています。そして愛の形は変わります。神様はどんなに時間が経過しても、どんなに変化を繰り返しても、その小さな「点」である愛を大切にし、残してゆきなさいと語っておられます。今日の聖書個所を一緒に読んでまいりましょう。
今日の聖書個所の時代、イエス様に従う人々の中には、もう旧約聖書はいらないのではないかという人がいました。イエス様の教えがあまりにも新しく、そして常識から外れていたので、これまでの教え、旧約聖書はもういらないと考えたのです。一方、イエス様に従いつつ、旧約聖書の教えを熱心に守り続ける人もいました。
そんな人々の間でイエス様が旧約聖書をどのようにとらえたのかというのが今日の話です。イエス様はもう旧約聖書はいらないというその人々に、18節、旧約聖書は一文字も、一点一画も消え去ること、失われることはないと教えたのです。そして旧約聖書は変わらないということと同時に愛は形を変え続けるとも教えたのです。
今日はお読みしませんでしたが、続く21節以降を見るとそれがよくわかるでしょう。「あなた方も聞いているとおり、〇○と命じているが、しかし私は言っておく」という教えが繰り返されています。それがずっと5章の中で繰り返されるのです。今日の部分はその導入です。イエス様が言おうとしたこと、それは旧約聖書にはこう書いてあるけれど、しかし私はこれを愛として受け取りなおすということです。
旧約聖書は一点一画も失われない、でも愛は人や時によって、形を変え続けるということを語っています。
一番その特徴が出ているのは43節の敵を愛しなさいという箇所でしょう。イエス様は旧約聖書を愛の教えとして理解をしているのです。旧約聖書・律法を愛として解釈したとき、いままでとは違う新しい行動を起こすべきであると言っているのです。今まではこう聞いていたかもしれない、それは失われることはない。しかし私はいっておく、今この時、愛はこうであると言っているのです。イエス様はこのようにして旧約聖書の命令を愛として受け取り、愛の実践を語ったお方でした。
イエス様は、この時において、古代から伝わる言葉の、何が愛なのかを問い続け、答えたお方です。その「しなさい」「してはならない」中にある「点」のような愛を明らかにしたお方です。そして文章全体をこの「点」のような愛から解釈をし直したお方です。命令のことばを愛として解釈をし直したお方だったのです。
17節にはイエス様が「私は律法を廃止するために来たのではない。完成させるために来た」とあります。イエス様は旧約聖書を棄てるお方ではありません。旧約聖書を完成させるお方でした。完成させるのはイエス様の愛です。
たとえどんなに良い事をしても、どんなに律法を忠実に守ったとしても、そこに愛が無ければそれは空しい事です。ただ機械のようにルールに従って生きるだけです。しかしもし点のように小さくても、そこに愛があれば、単語と文章が完成するように、そこに意味が生まれるのです。愛が絆を作るのです。
そしてイエス様は特に、この愛の実践を大切にされたお方です。言葉だけではない愛の行動が大事だとおっしゃるお方です。20節にあるようにファリサイ派や律法学者は熱心にこの律法を実践する人でした。イエス様はその人たちを攻撃しているのではありません。その徹底的な実践に対して私たちも、それに勝るとも劣らない、愛の実践が必要だと私たちに教えているのです。
私たちも今、協力伝道の中で、教会の交わりの中で、どのような愛が実践されてきたのか、愛を受けて来たのかを思い出します。そしてこれからの時代にどのように、一人一人の間に、協力伝道の間に、愛の実践をしてゆくべきかを考えます。
今まで私たちの間には愛がありました。それと変わらない愛の示し方があるはずです。そして同時に新しい愛の示し方があるはずです。その愛は点のように小さいものかもしれないけれども。しかしその点・その愛は、無ければすべての意味が変わってしまうほど、大事なものです。その点・その愛を探し求めてゆきたいのです。そしてそれを今の私たちなりに、実践として示してゆきたいと思うのです。
私たちにはいつも協力伝道という愛に囲まれていました。教会の交わりという愛の中に確かにいるのです。その点を、その愛を大事にしながら、今この時にふさわしい愛の形をもとめてゆきたいのです。その形をイエス様に聞き続けてゆきたいのです。
1カ月協力伝道をテーマ、きっかけにして聖書を読んできました。どのようなことをお感じになったでしょうか。教会は一人ではできないことがあります。国外伝道や牧師養成は一つの教会ではできません。そして教会は相互に学びあい、励ましあう仲間です。これからも他の教会と共に歩みましょう。そして私たちは互いに祈り会うように、教会同士のことも互いに祈り、愛し合い歩みましょう。
私たち一人一人も同じです。会って大きな愛を示すことができない時にいます。昔と同じ愛を示すことができない時を迎えています。それでも互いの間にある点のような、小さいけれども確かにある、愛を大事にしましょう。形は変わることがあるかもしれませんが、今できる愛、この時にふさわしい愛を大事にしましょう。神様は小さな愛を大切にするお方です。互いに祈り、愛し合いましょう。お祈りをいたします。