みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝を共にできること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしてゆきましょう。
今日はアドベント・待降節の第2週です。2本目のろうそくに火をつけました。4本目の火がつく日を待っています。イエス様の誕生を待ち望む4週間をいただいています。今日はその2回目の礼拝です。共に聖書を読んでゆきましょう。
今日はイエス様の生まれ故郷、生まれた場所の話です。ナザレの話です。イエス様の地元での出来事を記されています。
地元から有名人が出るというのは大変誇らしいことです。平塚出身の有名人をご存じでしょうか。山瀬まみあるいはキンプリの高橋さんが平塚出身だそうです。そして、もしかしたら平塚から総理大臣もでるかもしれません。総理大臣にしたいランキング第3位に平塚市出身の河野太郎さんが挙げられていました。ちなみに彼は今はありませんが、平塚YWCA幼稚園卒業だそうです。もしかしたら、この教会の紫苑幼稚園に入っていたかもしれません。
平塚から総理大臣がでたらどんな気分になるのでしょうか。失言があったり、失敗があったり、いい加減な答弁をしたら恥ずかしい思いをするでしょうが、なんとなく誇らしい気持ちもします。応援したい気持ちも出てくるかもしれません。地元平塚では多くの人がそれを歓迎するでしょう。
私たちは彼が日本を代表する政治家の家柄だということも知っています。おじいちゃんの代から国会議員で、様々な大臣を歴任し、メディアの注目度も高い政治家です。自民党にしては少し型破りなところが、第三位、総理大臣にふさわしいと言われる理由かもしれません。
一方、平塚はずっと河野一族の地盤で、それ以外の国会議員はほとんどいません。河野太郎に本当に対抗する候補者は平塚から長らく出ていません。選挙の無風地帯、つまりほとんど戦いが起こらない選挙が行われている地域と言われています。そんな場所で立候補してもどうせ負けるに違いありません。それでも立候補する議員のことを世間では「泡沫候補(ほうまつこうほ)」と呼びます。とても差別的な呼び方です。負けて泡のように消える人という意味です。
今まで平塚は何十年間そうでした。負けるとわかっている選挙に出る人はほとんどいませんでした。家柄があって、有名人で、次期総理大臣候補とは誰も戦いません。もし私が河野太郎に対抗して選挙に衆議院選挙に立候補したらどうでしょうか。家族・親戚・教会のみなさんは猛反対するでしょう。まず絶対負けるし、家族の恥、教会の恥だからやめろと言われます。子どもからはパパ恥ずかしいからやめてと言われるでしょう。河野さんの対抗馬になれば、地元の人も急に冷たくなるかもしれません。間違えなく「泡沫(ほうまつ)候補」でしょう。
どんなに強い思い、やる気、しっかりとした政策があっても、それは関係ありません。知名度や家柄で圧倒的に負けてしまうのが「泡沫候補」です。その人は落選し、笑われ、恥をかくことになるでしょう。
しかし今日の個所、実はイエス様もそれによく似た状況だったのではないかと思います。イエス様も泡沫候補の一人だったのではないかと思います。人々は確かに救い主を待っていました。何百年も待っていました。その間繰り返し自分が救い主キリストだという人が現れました。しかしどの人もキリストではありませんでした。私がキリストだと言う泡沫候補が現れる度に、みんなそれを笑い、それを拒否しました。
イエス様の時も同様です。「イエス、お前が救い主のはずがないだろ。そういう人は、もっとちゃんとした一族から、学歴のある人とか、祭司の家系から出てくるもんだよ。こんな貧しい小さな村のナザレから、出るわけがないでしょ」と諭されたでしょう。
しかし確かに救い主イエス・キリストはこの小さな村で生まれ、育ったのです。そのことの意味を今日は知りたいのです。それは神の子が、こんな場所に神の子は生まれないとみんなが思う場所にこそ生まれたということです。汚い、狭い、小さい場所に、神はいないと思う場所に生まれたということを示しています。今日はそのことを聖書から読んでゆきましょう。
今日の聖書の個所をお読みしましょう。今日の個所ではナザレに戻ってきたイエス様の姿が描かれています。イエス様の活動を家族や地元の人はどう思ったのでしょうか。人々はイエス様を誇らしく迎えたのではありませんでした。
54節「人々は教えを聞いて驚いた」とありますが、素晴らしさに驚くということではありません。もっと否定的なニュアンスです。何をこいつは教えているのだ、まったくという驚きです。
地元から有名人が誕生したという誇り、喜びすらありません。まさしく泡沫候補としての扱いを受けています。お前なんかが救い主なわけがないだろ。お前なんかがそれになれるわけがないだろうと評価されています。54節続きには「だってお前は近所の大工の息子だろ。小さい頃は汚い格好で、そこら辺を鼻垂らして歩いてただろ。きょうだいと一緒にバカ騒ぎしてただろ。そんなお前が救い主、キリストなわけがないだろう」そう言われたのです。
まさしく「泡沫候補」です。金持ちの子どもでも町一番のこどもでもなかったキリスト候補者です。貧乏で学歴も実績も家柄もないキリスト候補者です。家族にとってみれば恥です。誰にも相手にされない馬鹿なことを言い出す人が身内から生まれてしまったのです。人々は56節「どこからこんなことを知ったのか」とその由来を聞いています。こんな小さな町ナザレで生まれ育ったイエスがどこでそれを知ったのかと疑問に思ったのです。
おそらくイエス様の活動を最も評価しなかったのは、このナザレの町の人々です。今までの自分の見てきたこと、聞いてきたことから判断すれば、誰に目にもイエスが神の子ではないことが明確でした。それは無理のないことかもしれません。身内にそういう人がいたら信じるどころか、迷惑だろうなと同情します。
同情する一方で、ナザレの人々のその判断に疑問も残ります。彼らはイエスが神の子であるという可能性をまったく考えなかったのです。どう考えても自分たちの判断が正しいと自信を持っていたのです。激しく憤るほどに、自分たちが正しいと思ったのです。こんな汚い村から、こんな小さな家から、世界を救う神の子が生まれるわけが無い、イエス様の話を聞いてなおそのように判断したのです。
「しかし」です。「しかし」まさしくここに神様の在り方が現れています。それがキリスト、神の子だったのです。神の子は、人々の想像もできない場所から現れたのです。まずもってお前はちがうだろうと思う、そこに神がいます。まずもってこのような場所には神の子は生まれない、そう皆が認める場所に、神の子はお生まれになったのです。
神の子は人々がここに生まれたら誰もが神の子だと信じる、そのような場所、そのような家柄を選んで生まれたのではありません。とても受け入れることができない、場所に受け入れがたい方法で現れたのが神です。そしてキリストはそのナザレをふるさととして下さったのです。それは偶然、ナザレだったのではありません。それが聖書の神様の選び方なのです。
神様は私たちの常識では考えられない場所から現れるお方です。神様は私たちの想像を超える場所から現れるお方です。それがイエス・キリストの誕生ということです。小さな民族の、小さな村ナザレの、小さな大工の家に、偉大な神の子が生まれるのが神の選びなのです。
そしてキリストは特別な存在ではなく、一人の人間として、小さいころを、ナザレの町の人々と共に生きたのです。ふつうの子どもとしてその村で生きたのです。そのような神の子の現れ方は全く想像を超えます。ナザレの人々はそのようなことはあるはずがない、そう常識的な判断をしたのです。
イエス・キリストとはこのように私たちの常識を超えて現れるお方です。そしてまた時代を超えて、私たちにも現れ、共にあろうとしてくださるお方です。イエス様が生まれ、住まわれる場所、それは小さな私の中です。取るに足らない私に、神様は現れて下さるお方です。
罪深く、不完全な私の中こそ、神様は現れて下さいます。共にいるといってくださいます。神を受け入れることのできない私に現れて下さるのです。すばらしい人格を持ったあの人にこそ神様は現れるに違いないと思うでしょう。でもそれは神様の選び方ではありません。この不完全な私に、不完全なあなたに神は現れて下さるのです。
神様はこの不完全な私たちをふるさととしてくださいます。私たちは、この待降節・アドベントでそれを待ち望みたいのです。こんな私たちに神様が来て下るのを待ちたいのです。イエス様どうぞ、私の心に来てくださいと、この時を待ち望みたいのです。あなたを私の心にお迎えする準備、それは全くできていません。いつまでたっても狭くて、汚くて、小さい私です。とてもあなたをお呼びできる美しい心ではありません。あなたをお呼びするなどきっとできない、私はあなたの前でも泡沫候補です。
でも神様は、そんな場所こそを選ばれるお方だと今日の個所は語っています。あなたを招けず、受け入れられず、自分の常識でしか測れない、落選確実の泡沫候補の私にこそ、神様は現れて下さいます。そして主イエスも泡沫候補でした。泡沫候補であるキリストが泡沫候補である私に現れて下さったのです。
それが起きる時は本当にうれしいことでしょう。みんなで万歳をする喜びでしょう。その時こそ、うれしいクリスマスとなるでしょう。共にその時を待ち望みましょう。神様は私たちが絶対にここに神はいない、私にはあなたを迎える準備などできていない、そう思う場所に生まれ、住んで下さるお方です。小さな場所を選んで来てくださるお方です。私たちと共に生きて下さるお方です。この方をお待ちしましょう。お祈りします。