いま日本では少年法の厳罰化が議論されています。未成年の犯罪にも大人と同じ罰を与えようという議論です。少年犯罪が増加・凶悪化しているわけありません。むしろ減少し続け戦後最低を更新しています。罪を犯した未成年はまだ発達段階にある人間です。成長の途中に犯した罪には罰を与えるだけではなく、様々な教育や支援が求められているはずです。人との温かい関わり、私たちの言葉で言い換えるなら「罰」よりも「愛」が必要とされます。
罪を犯す少年に、罰を強化するのではなく、もう一度命の大切さを知り、共に生きることを選びたいと思うのです。だって人は生まれ変われるではないですか。罰せられるのではなく愛されることを知ることがどれほど大きな力になるのか、私たちは知っているではありませんか。
神様は敵と思えるような人さえも愛しなさいといいます。そして誰よりも神様ご自身がそのようなお方です。神様は条件を付けずに人を愛するお方です。そのことをもう一度、今日の聖書個所からいただきます。
そもそも、殴られない様にするには、相手の言うことに従えばよいのです。無言で従えば殴られることはありません。しかし間違っていると思う相手に反対を表明する時、殴られるのです。この個所は、善と悪をしっかりと見極め、殴られるとしても、悪に毅然とした態度をとるように求めているのです。
私たちは殴られ続けても、悪をうやむやにするのではありません。社会から悪をなくすために、毅然と立ちたいのです。イエス様はあらゆる暴力と罪に毅然と立ち続けることを私たちに教えているのです。
しかし聖書の要求はさらに私たちに厳しく迫ってきます。続く44節には「敵を愛しなさい」とあります。私たちは自分や誰かを殴る人を大切にすることができるでしょうか。家族とでさえ、教会の仲間とでさえ、傷つけ合ってしまうことのある私たちです。私たちの隣人だけでも愛するのが大変なのに、どうして敵を愛することなどできるでしょうか。
でも一つだけ確かなことがあります。それは、神様は隣人も敵もどちらも愛するお方だということです。神様が愛する範囲は、もはや隣人であることを超えてしまっているのです。神様は敵か味方か関係なしに、すべての人を愛し、大切にされるお方です。私たちに敵を愛せという以前に、そもそも神様が敵を愛しているお方なのです。神様の愛は一切の条件が無いのです。それが無条件の愛です。45節、太陽が人々を等しく照らすように。
私たち人間はいつも条件付きの愛の中にいます。しかしそれでも私たちは無条件の愛にむけて歩みを始めたいのです。今日神様の愛を頂いて、今週もすべての人を愛する、大切にするその歩みを始めたいのです。特に敵、苦手と思う人をもう一度愛する、大切にするチャレンジを今週したいのです。
イエス様はまさに地上でその歩みをされたお方でした。十字架の上でも、人々を愛し続け、暴力に十字架で向きあわれたお方だったのです。