「低みに立つ宗教」ヨハネ13章1節~20節

私たちは今月「世界」というテーマで聖書読んでいます。世界を見渡す時、宗教が原因のとなる紛争があります。そして一神教は排他的な宗教だと言われることがあります。実際に私たちには他の宗教を劣った宗教として見下す態度があったかもしれません。

私たちはその態度を変えたいと思います。私たちは自分の神をしっかりと紹介し、そして相手から紹介される神のことをよく聞きたいと思います。そして自分が正しいという前提を一度置いて、他者と対話したいのです。

私たちの神様はこの図のように、低きにいる神です。私たちの神は弱さの中にいる神です。階段を下っていくと会える神です。高みに行こうとすれば、私たちの神とは離れてゆきます。その底辺に十字架があります。

他の宗教の人々と対話する時、大事にしたいことは、階段を下りて対話することです。低みから話し、聞いてゆくことです。見下して聞かないこと、見下して語らない事。低みから証しすること。そこから私たちの対話は始まります。それは私たちがイエス・キリストを模範とするからです。

今日の場面で主人であるイエス様は弟子の中で、自分を最も低い立場に置かれました。イエス様は特別な力をもって人々の上に君臨するのではなく、人々より低い場所に、底辺に立つのが私たちの神様でした。

イエス様が足を洗った弟子の中には様々な人がいました。裏切らない人、信頼できる人の足だけを洗ったのではありません。全員に低くひざまずき、足を洗ったのです。イエス様はそのように全員に、低く立たれたお方です。

低みに立つ神と人という関係以外に、神と人との関係は何もありません。神は低みおられるからこそ、神なのです。神様はどんなときも、私たちより低い場所におられ、私たちの足を洗い、私たちを愛し、愛し抜く、最後の時まで大切にしてくださるお方です。

14~15節では私たちも互いに足を洗いあいなさいとあり、この姿が私たちの模範だと言います。私たちは宗教や立場を超えてどのような人にも向き合い、仕えてゆくことができるのかが問われているのではないでしょうか。低みに立って、どんな人でも愛し、愛し抜く、最後まで大切にし続けることが求められています。そしてその時、私たちは互いの弱さに触れあい、共に神を、十字架のイエス・キリストを見つける仲間となるのでしょう。

私たちには様々な対話があります。異なる宗教との対話が世界で、日常で起こされています。私たちはそれを低みから続けたいのです。今まで昇ってきた階段を下りて、低みにいる十字架のイエスの下で出会いたいのです。