「イエス様の行動から信じる」ヨハネ10章31節~42節

本日はコロナの防止の観点から、パンと杯はありませんが、み言葉のみで主の晩餐を行います。主の晩餐はイエス様と一緒にした食事と、一緒に行動した日々を記念するため、思い出し、忘れないようにするために持たれます。本当はパンと杯があった方が良いのですが、今できる形で最大限の方法でイエス様を思い出すという方法をとります。そして主の晩餐は受けて終わりとすることができない礼典です。それを受けると、それを受けてどう生きるか、この1週間をどう生きるかが問われます。

今月、私たちは世界をテーマに聖書を見てゆきます。今日はキリスト教の多くの教会で教派を超えて「世界聖餐日」がもたれます。世界中のキリスト者が主の晩餐によって一致を確認し、互いの信仰を認め合う日です。

このコロナ禍の中で、世界の一致、連帯、愛の行動がより強く求められています。しかしコロナはワクチンナショナリズムの問題を突き付けています。いま世界はワクチンの争奪戦と開発競争のなかにあります。世界のワクチンの三分の二は欧米や先進国だけに使われると言われています。ワクチンについて世界はどう一致と連帯のある行動をとれるでしょうか。今、世界が愛の行動をとることを願います。コロナの時、主の晩餐をするとき、イエス様の愛の行動を思い出します。そして世界が自国優先、自分優先ではなく、一致と連帯、愛の行動をすることを願い、主の晩餐をいただきたいのです。

今日の個所をお読みしましょう。今日もイエス様は非暴力で向き合います。イエス様は38節、私を信じなくても、私の業・行いを見て信じなさいと言います。業とは奇跡だけを指す言葉ではありません。業とはイエス様の人生全体、行動全体、生きざまそのものを指します。

イエス様は行動、生き様、それは今日の個所では暴力に対して非暴力・み言葉で立ちむかうという生き様です。その私の生き様、姿、後ろ姿を見て、信じなさいというのです。ほかにも石に打たれて殺されそうになった女性に対し、イエス様の行動は、弱い立場の側に立つという生き方でした。サマリアの女性、生まれつき目の見えない人、5000人の共食はどれも神様の愛をそのまま生きる、生きざま、愛の行動でした。

私たちはイエス様の生き様、愛の行動を見て信じるようになります。もし、神様のことを信じることができないと思うのなら、ぜひイエス様の生きざま、愛の行動を見てください。そうすればきっと神様のことをわかる、そう今日の個所は語っています。私たちはイエス様の行動を見て、信じます。そしてその愛の行動を思い出すために、この主の晩餐を持ちます。この主の晩餐によって、イエス様の愛の行動を繰り返し思い出すのです。そして私たちも愛の行動へと押し出されるのです。

今日は世界で共に主の晩餐が行われます。私たちもそれにあずかり、愛に生きるものとして歩みましょう。お祈りいたします。