「愛に生きる自由」ヨハネ8章31節~47節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができて感謝です。子どもたちも集ってくれています。平塚教会はこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聴きながら、共に礼拝をしてゆきましょう。特に今月は子どもをテーマとしながら宣教をしてゆきたいと思います。

今日の宣教題は「愛に生きる自由」という宣教題ですが、皆さんにとって「自由」とはどんなことでしょうか。たとえば食べ放題、好きなものを好きなだけ食べる自由です。回転寿司もそうでしょうか。家族で行っても、好きなネタを好きなだけ食べることができます。以前オーダーメイドのスーツを作ったことがあります。いろいろなオプションが選択できました。選べるのはスーツの生地や色、シルエットだけではありません。ボタンの色や形、ポケットの傾き方、裏地の色、すべて自分の自由に作ることができます。私たちの生活はなんでも自分で選び、決めることができるように思います。ドラッグストアのシャンプーは種類が多すぎて選ぶことができません。

しかしそれが本当の自由かというと、自由はそんなに安っぽいことではないはずです。本当の自由とは何か、自分は自由であるかを考える時、私たちの内面を見る時、自分はそれほど自由ではないと感じるのです。

私たちには本当はこう生きたい、こんな人間になりたいと思っているのに、なかなかそうなることができない、不自由さがあります。本当はあんなことすべきではなったとわかっているのに、そうしてしまった。本当はもっとこんな言い方をすればよかったのに、あの時すぐに謝っておけばよかったのに、そんなつもりはなかったのに。私たちは自分がすべきと思うことができない不自由な存在です。したいことができない不自由さを生きている存在です。誰も傷つけたくないのに傷つけてしまう、不自由さの中に生きている存在です。シャンプーが選べるのは表面的な自由です。でも人間はその本質で、誰もが不自由さの中に生きています。

クリスチャンはさらに不自由に見えるでしょうか。多くの人から見て、毎週日曜日に教会に来るということは、大きな不自由に見えるでしょう。日曜日に誘われるゴルフ、BBQ、同窓会、家族サービス、休日出勤。みんな「できません」と断って教会に行きます。周りの人は「ああ、キリスト教は、なんて不自由な宗教なんだろう」と見えるでしょう。教会に来る、礼拝に続けて出席するとは不自由の極みではないでしょうか。でも私たちはこの不自由を選び続けています。今日も選びました。

教会に毎週集うこと、それは表面的には不自由に見えます。でも本当の自由が教会にはあるのではないでしょうか。教会は自分がどう生きたいか、どう生きたくないのかを考える場所です。そして神様と仲間から、それを生きる力を頂くことができるのが教会・礼拝です。一番私たちがしたいこと、それは愛に生きるということです。その一番したいことと正面から向き合っている教会・礼拝、それは私たちにとって一番したいことに取り組んでいる自由な時ではないでしょうか。

目先の自由ではなく、本当に私たちがどう愛に生きるかを考える、本当の自由さを求める、本当の自由さがあるのが教会・礼拝ではないでしょうか。キリスト者は不自由に見えますが、本当は最も自由です。しかも教会では、神様の前では何だって祈っていいのです。どれだけ実現不可能と思えることだとしても神様に祈っていいのです。どんなに自分が不足と欠けのある人間であっても、人を愛することができるように、愛に生きるようになりたいと祈ってよいのです。

教会に集うこと、一番したい愛に生きるということの為に集うことの方が、シャンプーを選ぶよりも何倍もしたいこと、何倍も自由な時ではないでしょうか。本当に私たちがしたいことを目指す場所、純粋にそれを目指すことができる場所、自由な場所、それが教会・礼拝ではないでしょうか。だからこそ教会はなるべく自由な場所でありたいと思います。ああこうしなさい、こうすべきだというよりも私たちは愛に生きるために「どうなりたいか?」とか「どうありたいか?」を大事にしたいのです。それを聖書から聞いてゆきたいのです。

私たちは今日も、神様の言葉の中に、とどまるために集まりました。この礼拝に集いました。私たちは「愛」を選びたくても、なかなか選ぶことができないものです。でも今日、私たちが一番欲しい、愛に生きるということができる力、それをこの礼拝で受け取りたい、そう思うのです。それが私たちの一番したいことだからです。

 

 

今日の聖書個所を見てゆきましょう。今日の個所では自分たちは自由だという人々が登場します。イエス様はそんな彼らに、本当の自由とは何かを問いかけます。ここではユダヤの人々と出てきますが、律法でがんじがらめの自己中心的な人というような差別的な読み方はしたくありません。

 

よく読むと、31節「自分を信じたユダヤ人」とあります。この話はイエス様を信じますと言った人、少なくとも一度は信じた人に向けて語っています。つまり信じているのだけれども、何が自由かということが、再びわからなくなってしまっている人に語り掛けているのです。これは私たちのことも含むでしょう。一度はイエス様を信じても、本当の自由が何だったのか、わからなくなってしまう者、私たちです。

ユダヤの人々は自分が自由だと思っていました。奴隷ではないのだから、自分の生き方は自分で決めることができるのだから、自分たちはアブラハムの子孫、解放の歴史を持つ民族なのだと思っていました。

だから自分たちは自由だと感じてきたのです。たしかに彼らは困難の中でも自分たちの自由を守り続けてきました。しかしそれでもイエス様は、あなたたちは不自由だと言います。ユダヤの人々はあなたがたは不自由だと言われて怒りました。そしてもうそれ以上イエス様の言葉を受け入れようとしませんでした。37節むしろ殺そうとするようになったのです。

人々は、自分たちの自由を否定するイエス様を侮辱します。41節「私たちは姦淫の子ではない」とはイエス様の母親のマリアは結婚前に妊娠していたのだという、イエス様の出自を馬鹿にしている発言です。彼らの不自由さというのは、まさしくその言葉に表れています。

一度は信じたはず、神様の恵みを教えてもらったはず、でも目の前の相手を大切にできないのです。愛の関わりを持つことができないのです。そうすべきとわかっていても、出自への差別の言葉がでてきてしまうのです。なんと不自由な姿でしょうか。愛しあいたいと思っていても、口からはののしりの言葉が出てきてしまうのです。思うようにいかない、人間の不自由さを表しています。

そんな人々に44節でイエス様は言います。人は「初めから人殺し」だと、厳しく人の不自由さを指摘しています。旧約聖書のカインとアベルのことを指しているのでしょう。兄弟として力を合わせて歩むはずが、弟を殺してしまったアベル。

人は神の愛、恵みを知りながら、人と人とは共に生きる存在だと知りながら、不自由にもそれができず、殺しあう存在です。したくもない人殺しをしてしまった不自由。殺してはいけないとわかっていても殺してしまった不自由。ともに生きたいと思っていたのに、傷つけてしまった不自由。人間は愛の実践をできない不自由な存在、真理に立っていないのです。

 

私たちは本当にしたいことをできる、自由を求めます。私たちのしたいこと、すべきことができる自由さを手に入れたいのです。私たちはすべての人を愛することができる自由が、欲しいのです。殺しあうのではなく、愛し合うことをしたいのです。そのためにはイエス様が必要だと挙げていることが今日の最後の個所、47節に示されています。「神に属する者は神の言葉を聞く」という箇所です。

「神に属する者は神の言葉を聞く」というのは、言い換えるならば、神様に属する自由を得るためには、神の言葉を聞くことが大事だということです。表面的な自由ではなく、神に属する自由を得るためには、神様の言葉が必要です。聖書に聞いてゆくことが必要ということです。

私たち人間は自分の力では本当の自由を得ることはできません。自分の力だけではもっともしたい、愛に生きるということができないのです。自分の力だけでは不自由さのなかにとどまらざるを得ません。私たちは自分の、人間の不自由さにまず気づく必要があるでしょう。神のもとにいなければ、神に属さなければ、どれだけ日常を自由に過ごしても、愛に生きることはできない不自由なものであり続けるのです。

私たちは神なしには、他者を傷つけるということから逃れられない、不自由な存在です。私たちは本当の自由を求めます。誰も傷つけず、傷つけられず、共に生きる道、それが一番歩みたい道です。それは神様の導きの中にあります。それを生きる自由さを神様からいただいてゆきたいのです。

こどもというテーマを頂いています。その視点からも考えましょう。どうしても私たちは子どもに、あなたも教会に来なさいと言ってしまうものです。そして教会に来てからは静かにしなさいと言ってしまうのです。

本当は神様からいただく、自由を感じてほしいのに、そう言ってしまうのです。もしかして新しく来た方も不自由を感じているかもしれません。でも私たちは伝えていきたいのは、忘れないでおきたいのは、ここがまず本当の自由を求める場所なんだということです。愛に生きる、その一番したいけど、一番難しいことを、ここでしているのだということです。

それはもちろん、なんでもかんでも自分の思い通りにできるという、安っぽい自由ではありません。愛に生きること、あなたを大切にしたい、誰もあなたを傷つけない、その実現を求める場所です。そのことを忘れないようにしたいのです。

私たちは神様の前に、本当の自由を求めましょう。そして大人も子どもも共に礼拝をしてゆきましょう。お祈りします。