8月は共に平和を覚えてみ言葉を聞いてきました。9月は「こども」をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。私は夏休みを頂き、裾野のキャンプ場に行ってきました。キャンプにはいろいろな道具が必要ですが、中でも照明器具、明かりが大事です。キャンプに行くと普段は気づかないこと、私たちの生活が、あふれる光に囲まれているということに気づかされます。星の明かりもそうです。不便な場所、人里離れた場所でこそ、星の明かりは、美しく見えるものです。テント中では、不便さも贅沢に感じます。暗さの中ではかえって光を敏感に感じるようになるものです。私たちは普段、たくさんの明かりに囲まれています。しかしいつもと違う環境になったとき、はじめて光の中にいたことに気づくのです。このことは私たちがいつも神様の恵みに囲まれているということと似ているのではないでしょうか。
今日の聖書個所を読みましょう。実はテントと光が重要なカギです。今日の個所は仮庵祭の最終日の出来事です。出エジプトの際に人々が仮小屋、テントで過ごしたという出来事を忘れないためのお祭りでした。この祭りでは、人々は自分の畑に仮小屋を作り、過ごしたといわれます。キャンプです。
そしてその祭りは、光の祭りでもありました。自分たちを導いてくれたのは、雲の柱、火の柱でした。その火の柱が再現されたのです。エルサレムの神殿の一番高い場所に炎がともされたのです。つまり仮庵祭とは神様の光が苦境にあった自分たちを導いたということを思い出す祭りです。仮小屋で、テントで不便な生活をする中で、光に気づいたことを記念する祭りでした。
聖書にはたびたび光という言葉が使われます。どの箇所でも大切なのは、光は神様から出ているものだということです。私たちが、自分自身で輝く、自家発電しているのではありません。私たちは神様から光を頂いて、光を放つのです。そしてそれに照らされて私たちも光となるのです。この光は普段は気づかないものでしょう。しかし、今いる場所が暗くなれば、暗い場所に行けば気づくものです。不自由さや病や苦しみの中でこそ気づくものです。
そして神様はただの光ではありません。イエス様は世の光です。世の光、それは世のための光、世界全体のための光といえるでしょう。神様は従った人にだけ光をあげる、キリスト教はそんなケチな宗教ではありません。イエス様は世の光です。世界全体をすでに照らしている光なのです。
子供というテーマでも考えます。光の子と闇の子がいるのではありません。すべての子供、すべての人間と被造物が光の子です。大事なのは、その光に照らされていると子供が自分で気づくことです。教会はそれを助ける場所です。私たちが子供を大事にする時に、自分に神様の光が当たっている子供に伝わっていくのではないでしょうか。誰かに大事されたとき、お互いに大事にしあうとき、お互いが光に照らされていることに気づくのではないでしょうか。