「力を誇示しない平和の神」ヨハネ7章1節~17節

 75年前、広島と長崎に核爆弾が投下されました。この核爆弾が戦争終結を早め、多くの人を救ったと考える人がいます。本土決戦になったらより多くの犠牲が生まれたはずであり、原爆がそれを止めたというのです。昭和天皇も原爆は「広島の人には気の毒だが、やむを得なかった」と言っています。

 私は原爆投下は必要なかったと理解しています。原爆の目的は戦争を早く終わらせるためではなく、核兵器の威力を世界中に見せつける事で、戦後の国際覇権をアメリカのものとすることでした。もちろん日本はただの被害者ではありません。日本もアジアを徹底的に侮辱しました。それも必要のなかったことです。ただ力を誇示し、支配することが目的でした。

 戦争とは、互いが互いの力を見せつけ合う事です。なるべく自分を強く見せるために人を殺す、それが戦争です。日本は戦後この強さを誇示した歴史を反省し憲法を制定しました。そしてその憲法の精神は、私はイエス・キリストの願う平和と重なる部分が多いと思います。

 今日の聖書個所を見てゆきましょう。兄弟たちは、みんなの前で圧倒的な力を見せつけたら服従するようになるとイエス様を誘います。それは神様への信仰からの発言ではありません。彼らが頼みにしていたのは神様ではなく、力・パワーです。イエスはそれをきっぱりと断ります。イエス様は、自分の力を見せつけるという事に全く関心がありません。

 イエス様が人々にはっきりと見せたものとは、十字架の苦しみの姿です。ここに私たちはなぜイエス様を信じるのかということが隠されています。私たちがイエス様を、神様を信じるのは、どんな奇跡でも起こせるからではありません。私たちが信じるのは、イエス様が苦しい十字架の中に、神様の力が働くと信じたからです。私たちもそれを信じるのです。イエス様はどんなに圧倒的な力に打ち負かされようとも、必ずそこに神様の平和の力が働くと信じたお方です。十字架を通して、私たちもそれを信じるのです。

 「祭りには行かない」イエス様は一度はそう言ったはずなのに、やはり神殿に向かいました。その場所は分断と抑圧のある場所です。自分が信じていることを恐ろしくて言えない場所です。イエス様は自分の力を見せつけるためにはどこにも行きません。しかし、抑圧の現場には現れるお方です。イエス様が現われたのは、抑圧の真ん中でした。

 イエス様は私たちを具体的な行動へと招いておられます。力を見せつけることによって、軍事力によって世界を動かそうとすることに反対をします。

 私たちはイエス・キリストの十字架によって力に対抗したいのです。弱さの中に働く神の力によって、それにむかってゆきたいのです。それが平和を作りだすのではないでしょうか。平和は力を誇示する場所には生まれません。平和は十字架から生まれるのです。共にイエス様からその力をいただいてゆきましょう。