「70年間の目的地」ヨハネ6章16節~21節

1990年頃バプテスト連盟全体では500の教会と5万人の信者が目標とされました。教会を作る方法としては「母教会主義」が取られました。平塚教会も90年代この流れの中で1993年6月小田原伝道所を開設します。

限られた資料ですが、そこには開設当初の戸惑いや心配の声が記録として多く残されています。しかし、その中でも平塚教会は伝道所開設へと踏み出しました。しかし小田原伝道所は他の教会組織をした伝道所と違い、自立した組織には至りません。そんな中、牧師が退任することとなります。

2011年には小田原伝道所から平塚教会・バプテスト連盟との関係を解消したいと申し出があり、それは伝道所の意思として尊重されました。

どのような理由で距離感が生まれて来たのかは分かりませんが、両方の教会に課題や痛み、葛藤があったのでしょう。平塚バプテスト教会としては伝道所を成長させ、地域に定着させてゆく目標は達成できませんでした。

しかし私たちの目的、思いが何だったのでしょうか。私たちが小田原伝道所を出した目的、それはその途中で人々と出会う事、そしてイエス様と出会うことではなかったのでしょうか。そして今の私たちの教会も同じく、人数が、数がということ以上に、平塚の地域の人々に、そしてイエス様にどうやって出会うことができたのか、それが問われているのではないでしょうか。

今日の聖書個所を読みましょう。いつからか人々はこの聖書個所の舟とは教会の事だと理解するようになりました。教会は小さな群れとして暗闇に漕ぎ出すのです。しかし湖は荒れ始めます。漕ぎ出した舟はまるで私たち平塚教会の様であり、小田原伝道所のようでしょうか。

そこに不思議にも、イエス様が湖の上を歩いて現われます。でも、もう一つ不思議な事が起こっていることを見逃さないでください。それは21節「舟は目指す目的地についた」ということです。イエス様を受け入れようとしたら、いつの間にか目的地だったのです。

もしかすると、イエス様に出会う時、不思議と私たちもそんな経験をするのかもしれません。イエス様と出会った時、そこが私たちの目的の地だったということです。

この物語で指し示されているのは、「私だ」という言葉です。そうイエス様との出会いを見よということです。私たちの歴史の中にどのようにイエス様との出会いがあったのかを見よとイエス様は言うのです。

私たちの目指す場所、それは目標の達成ではありません。その途中にイエス様との出会うということが目的地なのです。大切なのはその旅の途中で「私だ」というイエス様と出会うことです。出会った場所、そこが本当の目的地になるのです。私たちにはこれからもチャレンジがあります。きっとイエス様との出会いが隠されているはずです。大事にしたいのはイエス様との出会いです。それが私たちの本当の目的地だからです。