「礼拝は一緒の食事」Ⅰコリント11章17節~22節

今日で12回シリーズの「礼拝は〇〇」というテーマの宣教は最終回です。

私たちの教会では、コロナの期間、主の晩餐を一時中断していました。今日は実に5か月ぶりとなります。私たちは70年間で初めて中断をしました。喪失感はどれほどあったでしょうか。実は私はあまり感じないのです。私は、いえもしかしたら教会も、主の晩餐を不要不急としてきたかもしれません。

初代教会では主の晩餐は、今でいうところの愛餐会・食事会でした。最初はとにかく全員でとる賑やかな食事だったのです。聖書にはイエス様がいろいろな人と食事をした場面が出てきます。関わらない方がいいと言われる罪人や外国人と食事をします。垣根を超えて、分け隔てのない食事すること、それがイエス様の運動でした。そのことを初代教会は忘れずに、みんなで食事をしていました。聖書には様々なイエス様の食事を描いています。主の晩餐は大きく分けて4つの食事のモチーフがあります。罪人との食事、最後の晩餐、復活後の食事、奇跡の食事です。

今日の聖書の個所を見ましょう。当時コリント教会でも主の晩餐、食事が行われていました。しかしそこでは一緒の食事ではなく、金持ちが先に食事をしました。貧しい信徒は金持ちの食べ散らかした、そのあまりものを食べていたのです。パウロがわざわざ手紙で怒っているのはそんな主の晩餐の在り方です。分かち合わずに、先に食べる人たちに、家で食べろと言うのです。

少し先の28節にある「誰でも自分を良く確かめなさい」とはこのことです。確かめるのは、自分だけ良ければいいや、食べてない人がいるかどうかなんて関係ない、えい自分が全部食べちゃえ。そういうことが無いかをよく確かめながら、主の晩餐をしなさいと言うのです。

ですから主の晩餐は自己吟味をして食べるという意味だけにはとどまりまりません。いわば共同体吟味です。私たちがその食事を分かち合う群れになっているか、共同体を点検する、吟味する、そのことがこの食事では求められているのです。互いに仲間割れが起きていないか、配慮しあう、祈りあうことができる共同体か、そのことが吟味される食事なのです。

私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で70年間続けてきました。礼拝の中でイエス様とのさまざまな食事を思い出し続けていました。今日もイエス様とのあの食事、それぞれに思いだしながら食べましょう。そしてこれはみんなで一緒にする食事です。私たちの仲間のことも、世界のことも思い出しながら食べましょう。それは礼拝の中で欠かせないものであるはずです。

さて、私たちは礼拝について、3か月ほど共に考え続けてきました。

礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集い、礼拝はみ言葉が中心、礼拝は献身、礼拝は派遣、礼拝は続く、そして礼拝は一緒の食事です。

学ぶだけで終わりではなく、日々の新しい礼拝を吟味してゆきましょう。