今日は礼拝から派遣された後も礼拝はそれぞれの生活の中で続いていくのだという事を考えたいと思います。
私たちの派遣される世は厳しい現実の中にあります。私たちはシャロームとは遠い、破れと歪みに満ちた世界に派遣されます。今、最も大きなゆがみとして世界に突きつけられているのは、人種差別でしょう。特にアメリカでは黒人への差別の問題が根深く残っています。5月25日にジョージ・フロイドさんが、警察官に取り押さえられ窒息死した、それをとらえた映像は目に焼き付いています。
『クラスメイトは外国人「課題篇」』という本があります。この本の中の第5章「外国人のこどもの貧困」の舞台は平塚市の子ども食堂です。外国人の親を持つ子供たちの困窮と、それに対する偏見・差別が描かれています。「外国人だから仕方がない」と片付けてしまう、差別と偏見が描かれています。
このような現実世界の中で、イエス様の弟子であり続け、それに立ち向かってゆくためには、ありあまるほどの力が必要でしょう。使いきれない程の恵みが無ければ、弟子として立ち向かうことはできないでしょう。だからこそ今日の礼拝、今日の教会でその恵みをはっきりと受け取って派遣されたいのです。祝福の宣言を受けてこの世へと派遣されてゆきたいのです。私たちは6日間、教会から、礼拝の中から、派遣され続ける者です。そのようにして礼拝は私たちの生活の中で続いていくのです。
今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様が願っておられること、それは私たちが世から隔絶されることでありません。イエス様が願うのは、汚れたこの世界からの隔絶ではなく、この世界のただなかに生きることです。
イエス様は私たちの役割を祈っています。21節、すべての人をひとつにするという役割です。私たちが派遣されるそれぞれの場所には必ず分断があります。差別や偏見や衝突があります。その分断に和解をもたらし、平和をもたらし、一つにするようにと、私たちは派遣されるというのです。それが私たちの役割、使命です。平和を作るのが使命です。
私たちは派遣されます。祈られて、使命を持たされて、分断へと派遣されます。イエス様の願いは、私たちの派遣された先ある、すべての分断が和解し一つになる事です。すべてが完全に一つになる事です。分断のない連帯をする、差別の無い、助け合う社会・関係になっていくことがイエス様の願いです。そして遣わされた私たちが他者を愛することによって、神様がイエス様を愛したこと、神様が分け隔てなく人々を愛することが伝わるのです。
礼拝は祝祷と派遣で終わります。礼拝とこの世の二つがあるのではありません。世にあって、礼拝を続けている、それが私たちなのです。私たちの1週間、神様を礼拝しながら歩みましょう。奉献の後、祝祷・派遣の時を持ちます。