「礼拝は献身」申命記14章22節~29節

私たちは礼拝で「献金」をしますが、礼拝のプログラムには「奉献」と表記されています。奉献と献金を比較すると、一番大きな違いは「金」という言葉が入るか入らないかです。献金の方が事柄をよく言い表しており、何がされるのかも明確です。でもそう表記しなかった70年間、きっと何か意味があったのではないでしょうか。おそらくこの言葉を使うのは、私たちの奉献の時、献げているものは、お金だけではないからです。私たちはお金ではなく、何事かを献げているわけです。では一体何を献げているのでしょうか。それは私たちの命、私たちの人生を献げている言えると思います。

私たちは、命は神様のものと考えます。命は自分のもの、人間のものではないと考えます。だから、いらない命は無いのです。人間がどんなにこんな命は無意味だと思っても、神様はすべての命が大切だとおっしゃるお方です。お金も同じ様に考えることができるでしょう。そのお金はたしかに自分のものです。しかしそれも、私たちは神様からいただいたものと考えます。

だから私たちは命もお金も自分のためだけに使うことをしません。神様のためにまずそれを使おうと考えるのです。そして神様からの命と恵みに感謝し、自分のためだけに使うことを諦め、お互いのために使うのです。奉献とは命と恵みに感謝し、お返しすること、分かち合うことなのです。

今日の個所によれば、献げ物は主をおそれる事を学ぶためにあるのだとあります。そしてそれをレビ人、寄留者、孤児、寡婦のために使う様にとあります。献げ物をする目的・動機、それは神様が怖い、恐ろしいからではありません。畏れとは、神様の偉大さを知る事、つまり神様がすべての命を作られたと知ることです。

私たちは神様が命を作られことを学ぶために、献げ物をするのです。そして献げられたものをどのように使ってゆくかも示されています。人々は神様に献げたものを、献げただけではなく、一緒にみんなでそれを分かち合って食べました。献げ物とは神様の元にある分かち合いだったのです。

聖書には特に寄留者、孤児、寡婦と分かち合うの様にとあります。これは現代の貧困にも重なります。献げものは自分たちの信仰を守る事だけではなく、生活に困窮している人々にも具体的に使うものであるということです。

私たちも教会の予算の中からは震災支援募金、社会福祉献金を支出します。自分達の信仰のためだけではなく、生活に困る人と具体的に分かち合っていく、そのことも神様が私たちに示していることです。

献金に痛みが伴います、それは献身の痛みです。そして一番自分を献げられたのはイエス・キリストです。自分の人生を献げ、神に仕えたのがイエス様です。私たちが献金をして痛いと思う時、それはイエス様の十字架の痛みと同じものかもしれません。それは自分だけのためだけに生きるではなく、他者と神様を選び取っていく痛みだからです。