「礼拝はこども歓迎」ルカ9章48節

 私たちは子どもを大切にする教会を目指しています。そして子どもと一緒に礼拝することを大切にしています。今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。子どもを大切にすることを表す聖句です。

神様はイエス様を通じて、ご自身の事、神様の事を教えて下さいました。だから私たちはそのイエス様を通じて神様に祈ります。神様を受け入れるということも同じです。神様を受け入れ、信仰を持つという事は、イエス様を受け入れるということです。聖書に書いてあるイエス・キリストの歩み方を受け入れて、自分の生き方にする事が神様を受け入れるということです。

 しかし今日の個所、イエス様は「子どもを受け入れるなら私を受け入れたことになる」と言います。神様=イエス様、イエス様=こどもという事です。神様はイエス様を受け入れるようにと言い、そしてイエス様は子どもを受け入れるように言うのです。

 かわいい子どもを受け入れることは命令をされなくても、案外簡単なことでしょう。しかし、私たちが受け入れる子どもとは、単にかわいいだけの存在だけではありません。子どもとは無力で、弱くて、保護が必要で、ときにはわがままな存在です。私たちはこのような、弱さと欠けを持った子どもを受け入れることを通じて、イエス様に出会い、神様に出会うというのです。

 弱さや欠け、実はそれを持っているのは子どもに限らないものです。力をなくし、弱くなっている人たちは大人でも多くいます。イエス様はそのような大人も優しく迎え入れる生き方をされました。弱く、小さい者を受け止め大切にしてゆく、その生き方を実践してゆくことが、イエス様を、神様を迎え入れることになるのです。そしてイエス様ご自身も弱いお方であり、ご自分の弱さを受け入れられたお方です。その一番が十字架です。

私たちは今、礼拝ということを考えています。私たちが礼拝で受け入れるのは、小さく無力で、弱い者、子どもです。そしてそれと同じくらい弱い自分やお互いです。そしてこの礼拝の中心にいるのも弱き者、弱くされた十字架のイエス・キリストです。その弱さを受け入れていくことが、十字架を受け入れてゆくことが、神様を受け入れてゆくことになるのです。

 今日の聖書の個所によれば、礼拝の中に弱さをもった者、自分や他者、子どもを受け入れる事が、私たちが神様を受け入れることになります。だからこそ礼拝の中には弱いもの、無力な者が必要です。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人が礼拝には必要です。私たちの無力さが礼拝の中には必要なのです。それを受け入れてゆくことが、キリストを受け入れる事になります。そこに弱い者、弱い私がいることが大事なのです。

礼拝は弱い者の集まりです。もっと弱い者が集まる礼拝としてゆきましょう。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人を歓迎します。そして一緒に神様に出会う礼拝をしてゆきましょう。