私たちは今、「礼拝とは何か」というテーマを考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマです。礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められ、そこで私たちは一つの教会になります。私たちは礼拝共同体です。私たちを一番結び付けているのは礼拝なのです。
今日は礼拝の中の「報告」について考えます。報告は礼拝の一部です。忘れがちですが、礼拝プログラムの中に組み込まれている礼拝の一部です。
報告は礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で置くべきでしょうか。どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているからです。
多くの場合、神様は教会の仲間や友人を通じて、私たちに変化を起こそうとなさいます。だから私たちはそれぞれがみ言葉を聞いていればいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。このような共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。
今日の聖書個所を見てゆきましょう。今日の個所は報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。報告によって教会は大きな喜びに満たされます。自分たちの民族以外にも福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。
しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。
ある人はユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになると考え、イエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだと主張します。またある人は神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだと主張します。
私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。
いずれにしても今日見たいのは、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。そして報告によってこの共同体は境界線をなくしてゆくことを選んだのです。
報告によって、礼拝共同体の在り方は大きく問われました。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを問われ選ぶのです。