「礼拝は招き」ヨハネ21章1節~14節

今、私たちは「礼拝とは何か」をそれぞれの自宅で考えさせられています。ここまで礼拝は一番大事であること、礼拝は順序が大事だということを見てきました。特に先週は礼拝の中にある5つの要素と順序、招き、交わり、み言葉、感謝、派遣を見ました。今日からは私たちの礼拝のプログラムのひとつずつを考えてゆきます。その一回目は「招詞」です。

集えなくなって気づくのは、「私が頑張って礼拝に行くということよりも、神様が礼拝に招いてくださっていた」ということです。招きは、たとえ礼拝に参加できなくても変わらないものです。私たちにどのような事情や病があっても、たとえ自分が誰かわからなくなっても、たとえどんなに短い生涯だとしても、私たちは等しく神様の招きを受けている者です。

礼拝とはそのように一方的な神様の招きです。神様がおいでと私たちに語り掛けておられることが、礼拝で大事なことです。神様の愛と招きはすべての人に等しく注がれているのです。礼拝はただ神の招きによって持たれるものです。私たちは礼拝を始める時、まずその招きを聞くということから始めます。だから礼拝の一番最初には招詞、招きの言葉があります。今日の聖書も、大切な事は神様の招きであるということが語られています。

ペテロは一晩中あらゆる方法を試しても一匹の魚も捕れません。彼の働きは実を結ばなかったのです。自分達の力で取り組んだこの漁、自分達の力で取り組んだ働きはうまくいかなかったのです。人間の決心による集まり中では、誰も彼がイエス・キリストだとわからないのです。

しかしだからこそ、そこでイエス・キリストの招きが起こります。その招きは舟の右側に網を投げて見なさいという招きです。人間の決断ではなく、イエス・キリストの命令です。人間のあらゆる努力にまさる、神様の招きと恵みがあるのです。それが私たちの礼拝です。

網の中の153匹、それは神様が、すべての人々を招いていることを示しています。全世界のあらゆる命が、神様の招きを受けているという事です。弟子たちがイエス様に気づいたのは、その目で見た時ではありません。魚がたくさん取れた時、全世界のあらゆる命が神様に招かれているという事を知った時「主だ」と分かったのです。礼拝も同じです。あらゆる人間が神様から招かれているということを知る時、私たちは神様を知る者となるのです。

弟子たちがこの方がイエス様だと知ったのは、神様による招きの豊かさを知った時、そしてイエス様と食事をとった時です。本当にこれは私たちの礼拝そのものです。私たちも神さまを知るのは、あらゆる人が招かれた礼拝にあずかること、そしてイエス様との食事・主の晩餐によってです。

私たちの努力をすべて超えた、神様の招き、そしてイエスの食卓において、私たちはイエス様の復活を知る者となるのです。私たちの礼拝もそのように持ちましょう。私たちの礼拝を招詞・招きのことばから始めましょう。