みなさん、おはようございます。今日も一緒に礼拝をできることを感謝いたします。私たちはこどもを大切にする教会です。今は集うことはできませんが、こどもたちと一緒にそれぞれの場所で礼拝できることを願っています。
私たちの教会は今年、70周年を迎えます。これを機に12回シリーズで「礼拝とは○○」というテーマを宣教の中で考えてゆこうと計画をしていました。その後、集まることができない礼拝となり、ますます「礼拝とは何か」そして「集まるとは何か」を考えさせられています。
今日はこのシリーズの2回目です。前回は教会は「礼拝は一番大事」という宣教をしました。それが大事なのは礼拝が神様の招きだからです。教会は礼拝を止めたら教会ではなくなってしまうんだとお話しました。私たちはこの招きである礼拝を教会の一番にしてゆこう、礼拝に集中しよう、そんなことを考えました。
そして礼拝は聖なる者たちだけの集まりではない、ということもみ言葉からいただきました。礼拝は傷つき、罪深い「体」の集まりです。でも、それでいいのです。元気になったら礼拝するのではありません、元気がないまま礼拝においで、そう招かれているのです。今、ありのまま、そのままを献げ、礼拝をしてゆこう。今ならおなおさらです。今いる場所から礼拝しよう、そんなみ言葉を頂きました。
今日は礼拝の順序ということについて共に考えたいと思います。私たちが礼拝を持つとき、中身が大事で細かな順番にこだわる必要はないと考える方もいらっしゃるかもしれません。もちろんそのような事もあると思います。しかし、礼拝について真剣に検討することは、教会が一番大事にする姿勢、向き合う姿勢です。レビ記にはそのような真剣な礼拝の形式が検討されています。もちろん形式より中身が大事なのですが、中身があればどんな形式でも構わないということではありません。中身を問う時必ず、どのような形式・どのような順番で行うかが問題になるのです。
私たちの間にいつの間にか、定着している礼拝のスタイルがあります。今私たちに必要なのは、この一つ一つの意味を確認しながら礼拝してゆくことです。忘れ去られた意味をもう一度取り戻すことが必要です。何のために音楽があり、何のために挨拶し、何のために宣教があるのか、そしてそれがどのような順番であるのかを考えるのが大事です。
様々な礼拝の順序があります。例えばある教会では献金が礼拝の前半にあります。献金は多くの教会では宣教が終わった後に行われます。順番が変わることにどんな意味があるでしょうか?私はこれは献金がただ宣教、説教に応答して献げられるだけのものではないという事をよく示している順序だと思います。献金とは今日はいい説教だったからたくさん献金するということではありません。もちろん、み言葉に燃やされて精一杯を献げるということもありますが、まず先に献げていくという順序。それも大事な事を示しているのではないかと思います。
またある教会では報告を前半にする教会があります。これも最後にする教会が多いのですが、この報告がおまけではないという事をよく示しています。今の教会の事、私たちの事を報告しよく理解してから、礼拝の中心に向かっていく順序と言えると思います。
このように、同じことをしていても、順序の違い一つで物事の意味は大きく変わって来ます。どういう順番になるのかはとても大事なことです。礼拝がどうしてこのような順序で行われているのかについて考えたいのです。
そして私たちの礼拝は大きく分けて5つに分けられます。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣の5つです。まず礼拝は、招詞、招きの言葉から始まり、前半に挨拶や交読文など、お互いの存在を感じるプログラムがあります。そしてその次にはみ言葉のプログラム、聖書朗読と宣教があります。そして応答としての献金、そして祝祷による派遣が行われます。
このような5つの大きな順番の中で、私たちの礼拝は持たれています。そのような構造になっています。矢印を付けると分かりやすいでしょう。招きは神様から人間へ上から下の矢印です。交わりは左右の矢印、み言葉は上から下、感謝は下から上、派遣は上から下です。
礼拝はこのように、上下左右の運動が交互に折り重なりながら進みます。横糸と、縦糸が折り重なりながら一つの形、ひとつの礼拝になっているのです。いわばそれは上下左右の、縦横の対話と言えるでしょう。礼拝とは神様と、そして隣人との対話です。それが示されている順序、それはとても大事なのことです。
ご存知の通り、対話には順序が大事です。「こんにちは」「こんにちは」「いい天気ですね」「気持ちいですね」そういう順序が大事です。ですから私たちはこのようにして対話として礼拝の順序を考えるのです。そして神様との対話、私たちの対話を考える時、必然と礼拝がどのような順番かを真剣に検討する事になるのです。
礼拝の中で順序、これはとても大事なことです。礼拝が対話であることが理解しながら参加してみてください。そうすると礼拝がより豊かな神様との対話、として献げることができます。交わりを持つことができます。その上下左右の運動がこの礼拝の中に生き生きと浮かび上がってくるはずです。だからこそ順番が大事なのです。礼拝の中にある対話が大事なのです。
さて今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様が復活され、ペテロと愛する弟子の前に登場した場面です。イエス様が三度ペテロに「愛しているか」と聞いたという場面です。
私は礼拝の順序の事を考えながら、この個所を読んでいて気付くのです。このイエス様とペテロの対話、実は私たちの礼拝と、まったく同じ順序ではないかということです。
先ほど私たちの礼拝は大きく5つに分かれると言いました。招き、交わり、み言葉、応答、派遣です。この要素がこの対話には含まれています。そしてこの対話の順序と礼拝の順序が全く同じ順序なのです。私たちの礼拝と同じように、イエス様とペテロが対話をしている、私はそのように感じるのです。それを見てゆきましょう。
今日の個所での招きとは、イエス様はご自分からシモン・ペテロに声を掛けたということですそれは問いでした。「私を愛しているか?」しかしこの問いは同時に招きでもあります。イエス様はペテロに問いかけることで招いてします。「私を愛しているか?」ペテロが「愛しています」と応答することを、招いておられます。そしてこの招きによって、ペテロは信仰の告白、愛の告白へと導かれています。ペテロはイエス様に問いかけられ、対話と告白に招かれています。神様の招き、それが私たちの礼拝の始まりなのだと、この場所からも思うのです。
次は交わりという事が示されます。イエス様は「私の小羊、羊を飼い、世話をしなさい」と言うのです。あなたが私を愛ししているならそれでよし、ということではありません。愛していますと答えるペテロに、羊飼いになって羊の世話をしなさいと言います。羊飼いの仕事とはばらばらだった羊同士を結び付け、一つの群れ、ワンチームを作ることが仕事です。私たちは交わりによって人との結びつきを作るように、示されるのです。交わりを持ちなさい、一緒に礼拝をしなさい、それがこの呼び掛けです。だからこそ私たちは礼拝で挨拶し、交わりを持つのです。
3つめの要素はみ言葉です。それはもちろんイエス様のみ言葉です。イエス様は3回ペテロに私を愛しているかと問いかけます。3回尋ねられて、ペテロは悲しくなったとあります。3回、そう、自分がイエス様を否定した回数が3回です。あの3回を思い出し、自分の弱さ、卑怯さ、罪深さを思い出し、ペテロは胸が痛かったのです。
イエス様は3回否定したペテロに3回、み言葉を投げかけます。それによってペテロは3回愛ししていると告白することが出来ました。み言葉とはそのような力を持ちます。み言葉とは傷つき、失敗し、弱くて、逃げ出す私たちに向けられた言葉です。そして私たちにもう一度生き直すチャンスと、希望を与える言葉、それがみ言葉です。礼拝はこのみ言葉が中心です。その御言葉によって、私たちは自らの歩みに、失敗や不足、罪を思い出し、悲しくなります。しかしみ言葉によって、もう一度イエスを愛し、信頼し、歩みだそうとする力を頂くのです。信仰を回復させてゆく力、それがみ言葉です。礼拝のみ言葉にはそのような力があるのです。これが礼拝の中心です。
4つ目を見てゆきましょう。次にペテロは感謝の応答をしています。ペテロの告白が続きます。「主よ、あなたはすべてご存知です」という応答は私がどのような思いでいるか、あなたがすべてご存知ですという意味です。言葉にできない気持ちも、あなたが知っていてくださる。心の痛み、体の痛み、不安、すべてのことの本当の気持ちをあなたがご存知ですという告白です。それは委ねる言葉ともいえるでしょうか。イエス様に導かれ、み言葉に励まされた者は、イエス様に委ね、感謝する者になってゆくのです。委ねてゆくこと、それが感謝の応答なのです。
5つ目、最後はイエス様は私たちを派遣されるお方ということです。イエス様の言葉は、礼拝から派遣される私たちの歩みを示しています。私たちは、行きたい場所ではない場所に、連れて行かれるのです。派遣された後、私たちの人生は思うようにはゆかないものです。死がもっともそうです。どのように死ぬのかはほとんど選ぶことが出来ないように、私たちの人生はほとんど思う様に行きません。神様との出会い、神様との対話である礼拝の後に、私たちはそのような世に、現実に派遣されてゆくのです。しかし、イエス様は言います。「私に従いなさい」。すべてことが自由になるわけではないけれど、でもその中で「私に従いなさい」というのです。これが派遣です。礼拝でも最後に祝祷。派遣の祈りをしています。
5つを見てきました。これが私たちの礼拝の姿です。今日の個所と同じです。礼拝は招き、交わり、み言葉、感謝、派遣その順序で行われます。この順序はとても大事です。今日の個所を見てわかる通り、神様との対話とは上下、そして左右の運動です。ですからこのように、礼拝も上下左右の運動なのです。この流れの中に私たちの礼拝はあるのです。
もう一度私たちの礼拝の順序の意味をとらえ直したいのです。70年間私たちが大事に守って来た順序があります。それにもう一度意味をしっかりと見つけ出したいのです。「いつもの順序」「もともとこうだ」ではなく、もっと新鮮に、日々新しく、この礼拝を頂きたいのです。そして、もしかしてもっとこうしたら神様との対話になるのではないか、より上下左右の運動がもっと躍動的になってゆくのではないか、そのような部分が私たちの礼拝にはまだまだ残されているでしょう。
そのことを真剣に問う、それは教会にとって大事な役割ではないでしょうか。
礼拝を一番大事にしてゆきましょう。そしてこの順番の意味、その中にある、招き、交わり、み言葉、感謝、派遣、その意味をもう一度取り戻しましょう。いまそれぞれの場所からする礼拝、毎週の礼拝を、大切にしましょう。より神様と出会い、自分を献げることのできる礼拝を目指してゆきましょう。そして私たちはこれからも毎週一緒に、神様に出会う時、礼拝を献げてゆきましょう。
お祈りいたします。