「礼拝やってます」ヨハネ18章28節~38節

 教会は4月中はそれぞれの自宅で礼拝を献げることとしました。週報と宣教原稿を郵送し、インターネットでも配信をします。互いの顔を見ることができませんが、今日も共に神様の恵みを頂きましょう。ある方は「こんな時期だし、礼拝に行くのは止めた方がいい」と言われました。私たちは葛藤しています。こんな時期、きっぱりと諦めればいいのに集うかどうかについて葛藤するのです。

 ところで私たちはなぜ今まで礼拝に集っていたのでしょうか。それはまず神様が私たちを呼び集め、呼んでくださっているからです。でもこのことは周囲にどう説明したらよいでしょうか。「神様が呼んでいるから、私は礼拝に行きます」答えたら、どんな顔をされるでしょうか。でも私たちにはそれ以上の説明のしようがありません。「なぜ礼拝に参加するのか?」「それは神の招きだから」という家族との会話はかみ合いません。しかし私たちは、かみ合わないけれども、神の招きを証しすることしかできないのです。もちろん教会に向かう時だけでなく、教会の中でもそうです。かみ合わない会話があります。でも神様を証しし続ける、私たちはそのように他者と向き合ってゆくのです。それは今日の聖書の個所からも学ぶことです。

 イエス様とピラトの会話ははまったくかみ合っていません。イエス様はピラトが聞きたい有罪か無罪かについて話そうとしません。イエス様はひたすら神の国について答えるのです。イエス様とピラトの会話がすれ違う原因は、イエス様が「世に属さない」からです。世に属さないとは、イエス様の教えと存在はこの世を起源にもつものではないとうことです。まったく違う二人。交わらない二人。でもそこには対話と証しが生まれます。全くすれ違うけれども、たしかにそこには対話と証しがあるのです。まったく関係のないはずのものが、イエスの十字架という出来事によって、対話と証しを始めます。それは「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(ヨハネ1章5節)」とある通りです。

 真理とは隠れていないものという意味です。表面を飾り付けたり、うそをついたりしないことです。ごまかさないで、うやむやにしないで言葉を発することです。イエス様は神様のことをごまかさないために、それを証しするために生まれ、この地上に来られた、そして十字架にかかられたお方です。

私たちは神様の導きによって、礼拝に招かれています。私たちはそれを隠さずに、うやむやにせずに、証しし続けたいのです。そこでは必ず話がすれ違うはずです。かみ合うはずがないのです。しかし、それでも証しするために来られたイエス、そのイエスに従い、証しし続けてゆきたいのです。

 今、私たちは、それぞれの場所で礼拝することを招かれています。そしてそれぞれの場所で証しし続けることを招かれています。今日それぞれの場所で「礼拝やってます」そう証ししてゆきましょう。